今日から仕事始めの方もおられるでしょう。ごくろうさまです。(哲




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January 0412011

 初鴉わが散策を待ちゐたり

                           相生垣瓜人

くて大きな鴉は、その頭の良さに狡猾を感じさせるところもあり、多くの人に嫌悪される傾向にある。一方、「初鴉」が季語にもなっている由縁は、日常における迷惑な鳥という姿以外に、古くから神の使者としての役割りも担っている。烏信仰として知られる熊野三山の各大社で配布される神札は鴉が絵文字となっており、現在でも護符として使用され、神とのつながりを保っている。掲句はいつもの散策コースに必ずいる鴉が今日は特別な初鴉となって作者の前に現れたのである。一年のほとんどを嫌われ者として過ごす鴉だが、このときだけは堂々と吉兆の象徴として、そのつややかな黒い姿もどことなく神々しく見えてくるから不思議である。歳時記で見られる初鴉、初雀、初鳩。人間の生活とともに繁殖してきた鳥たちへの役どころはどれも清々しく好ましい。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)


January 0312011

 子規うさぎ虚子いぬ年や年巡る

                           矢島渚男

を折って数えてみると、ということは、子規と虚子とは七歳違いだ。二人の干支など思ったこともないけれど、こうして並べられてみると面白い。子規の柔軟さはたしかに「うさぎ」を思わせ、虚子の狷介さは「いぬ」に通じるところがあるような気がする。で、子規が年男ならば、今年は何巡目になるのだろうと、誰もがつい数えてみたくなる。これまた、俳句の妙味というものだろう。それぞれの人には干支があり、今年もまたそれぞれに年が巡ってきた。どんな年になるのだろうか。私が小学一年生くらいで干支を覚えたてのころ、家族や知人にそれぞれの干支を聞きまくったことがあった。自分は「とら」、父は「ねずみ」、母は「たつ」と、みな違っていた。で、遊びにきた叔父に聞いてみたら、「哲ちゃんと同じだよ。とらだよ」と答えた。私は覚えていないのだが、そのときとっさに口をとんがらせたらしい。「そんなことないよ。だって、おじさんはもう大人じゃないか。おんなじトシじゃないじゃないか」。後年、よく母が笑いながら話してくれたものだ。「俳句」(2011年1月号)所載。(清水哲男)


January 0212011

 ノートパソコン閉づれば闇や去年今年

                           榮 猿丸

時記によると、去年今年とは、「去年と今年」という並列の意味ではなく、年の行き来のすみやかなことをいうとあります。ということは今日の句は、大晦日の夜から元旦にかけてノートパソコンで作業をしていたことになります。ノートパソコンという言葉から思いつくのは、やはりオフィスの中です。深夜の、それもその年の最後まで仕事をしているところを想像してしまいます。年末まで仕事をしていた同僚も、一人、二人と「よいお年を」の挨拶をして帰っていったなと、思いながら集中して画面に見入っていたようです。気がつけば広いオフィスは自分のところだけに電気がついていて、あとは右も左も真っ暗です。やっと終えた仕事は、年初の会議に使う資料ででもあるのでしょうか。「なんとか終わったか」と安堵して時刻を見れば、気づかぬうちにすでに新年を迎えてしまっています。ほっと一人で笑みがこぼれてきます。明かりを消して、やっと昨年と、PCが閉じられます。『超新撰21』(2010・邑書林)所載。(松下育男)




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