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January 0412011

 初鴉わが散策を待ちゐたり

                           相生垣瓜人

くて大きな鴉は、その頭の良さに狡猾を感じさせるところもあり、多くの人に嫌悪される傾向にある。一方、「初鴉」が季語にもなっている由縁は、日常における迷惑な鳥という姿以外に、古くから神の使者としての役割りも担っている。烏信仰として知られる熊野三山の各大社で配布される神札は鴉が絵文字となっており、現在でも護符として使用され、神とのつながりを保っている。掲句はいつもの散策コースに必ずいる鴉が今日は特別な初鴉となって作者の前に現れたのである。一年のほとんどを嫌われ者として過ごす鴉だが、このときだけは堂々と吉兆の象徴として、そのつややかな黒い姿もどことなく神々しく見えてくるから不思議である。歳時記で見られる初鴉、初雀、初鳩。人間の生活とともに繁殖してきた鳥たちへの役どころはどれも清々しく好ましい。『相生垣瓜人全句集』(2006)所収。(土肥あき子)


January 1112011

 遠吠えが遠吠えを呼ぶ霜夜かな

                           松川洋酔

ょうど本日1が重なるワンワンワンの日に合わせて犬の句を。遠吠えとは、犬や狼が身に危険を察知したときにする情報伝達のための呼び声である。町で飼われている犬たちが、パトカーや救急車のサイレンに反応するという現象は、サイレンの高低が遠吠えに似ているためといわれ、大きな車が危険を知らせながら猛スピードで通り抜ける姿に、縄張りを荒らされていると勘違いしたペットが威嚇のリレーをする。群れから遠ざかり、人間との生活が長い犬が、遠吠えという犬同士でしか理解できない声を手放さない事実に切なさを感じるのは、過去の歴史のなかで野生の獣として走り回っていた姿があったことを強く思い出させるからだろう。霜が降りる夜は気温が低く、よく晴れ、風のない日だという。張りつめたような霜の夜、犬が持つ高性能の鼻や耳は、なにを嗅ぎ分け聞き分けているのだろう。イギリスの作家サキの傑作「セルノグラツ城の狼」では、ある家柄の者が死に近づくと森の狼が一斉に遠吠えをする。これが実に誇り高く美しいものだった。掲句に触発され、読み返している。〈明らかに戻りしあとや蜷の道〉〈炭足してひととき暗くなりにけり〉『家路』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1812011

 梟やわが内股のあたたかし

                           遠藤由樹子

ーロッパでは森の賢者と呼ばれ、日本では死の象徴とされてきた梟は、動物園やペットとして飼われているものでさえ、どこか胸騒ぎを覚えさせる鳥である。集中前半に収められた〈梟よ梟よと呼び寝入りけり〉の不穏な眠りを象徴した梟が印象深かったこともあり、後半に置かれた掲句にも丸まって太ももの間に手をはさんで横になる姿勢を重ねた。左右の脚の間にできるわずかな空間のやわらかなぬくもりが、安らかな心地を引き寄せる。それは自分で自分を抱きしめているような慈しみに満ち、そして少しさみしげでもある。おそらく胎児の頃から親しんできたこのかたちに、ひとりであることが強調されるような様子を見て取るからだろう。寒さに耐えかねてというより、さみしくてさみしくてどうしようもないときに、人は自らをあたためるようなこの姿勢を取ってしまうのだと思う。血の通うわが身のあたたかさに安堵と落ち着きを取り戻したのちは、元気に起き上がる朝が待っている。『濾過』(2010)所収。(土肥あき子)


January 2512011

 木星の色を転がし毛糸編む

                           山田真砂年

星といえば赤道方向に伸びるカラフルな縞模様が特徴である。その色かたちはまさにグラデーションのかかった毛糸玉のように見え、掲句の通りと共感する。俳句による「見立て」のむずかしさは、共感を得つつ、平凡ではなく、なおかつ突飛すぎない、という頃合いにある。掲句には生活のなかに存在するささやかな毛糸玉が、みるみる太陽系のなかでもっとも大きな惑星へと大胆に変貌する切り替えの面白さに無理がなく、羨望のクリーンヒットとなっている。そして、このたび何種類もの木星の画像を見たのだが、色彩がタイミングによって赤い大理石のようだったり、青白く映っていたりとまるで折々の気分次第で色が違っているように千差があった。また木星は太陽系のなかでもっとも自転の早い惑星でもあるという。壮大な奥行きとともにテンポのよいホルストの組曲『惑星』の「木星」をBGMに、くるくる回転する木星に今にも飛びかかろうとしている猫の姿など、楽しい空想が抑えようもなくふくらんでしまうのだった。「湯島句会」(2010・第36回)所載。(土肥あき子)


February 0122011

 おさなごの息がルーペに花はこべ

                           池田澄子

こべは、はこべらとも呼ばれ、漢字では「繁縷」。こんな難しい字を背負っていたのかと驚くが、道端や庭の片隅などでよく見かける、いかにも雑草然とした地味な草である。米粒ほどの白い花は、よくよく見れば星の形をしていて確かに味わい深く可愛らしいが、あらためて振り返るような花ではない。しかし、尽きることのない子どもの好奇心の前では別だ。一度ルーペを渡せば、小さな手が探偵よろしく、家のなかから庭先まで飽きることなく覗きまわる。新しいことを知りたい気持ちが押し寄せて、ルーペが曇るのも構わず小さな花と向かい合うのだ。思えば、大人になればなるほど、目をつぶる機会は多くなる。年を重ねるごとに腹立たしいことやむなしいことばかりが目につき、自分の心を穏やかに保つために、なるべく見たり聞いたりしないようにするのが人の世の保身術であり処世術なのである。掲句に触れ、なにごとにも目を凝らしていた時代のわくわくした気持ちを思い出すことができた。息で曇ったルーペを拭えば、すぐそこまで迫っている春の姿が映っているかもしれない。「俳句α」(2011年2-3月号)所載。(土肥あき子)


February 0822011

 紅梅は語り白梅聴いてゐる

                           岩岡中正

梅には、なにものにもかなわない清楚な美しさがある。同じ花ながら、梅ほど色によって性格が分けられるものはないと思われる。立春前から咲き始める白梅に感じられる凛とした美しさは、寒さのなかで耐えている健気さとあいまったものである。一方、寒も明けて春の兆しをはっきり感じられる頃に咲き始める紅梅に、苦労なしの横顔を見つけるもの梅を愛好する者の感じかたのひとつだろう。紅白の梅に相反する気性を認めたうえで、さらに新鮮な発見を与えてこそ、俳句に描かれた梅は生き生きと色彩を得る。掲句同様、紅白の梅の文学的真実は檜紀代の〈紅梅のふたつ年下白梅は〉にも表れる。梅の紅は積極的、白は控えめと印象づけながら、しかし日が落ち、夜ともなれば紅梅はすっかり闇に溶け込んでしまう。夜道に漂う梅の香りに、あたりを見回せば、浮き立つような姿を見せるのは白梅である。昼は聞き役となっていた白梅が、その姿を夜目にも鮮やかに浮き立たせるあたりも、梅のひと筋縄ではいかない面白さであるように思う。じきに桜に花の座を取られてしまう態の梅だが、花は香りと思うむきには梅の花がなにより勝っていると確信する春浅き夜である。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1522011

 この枯れに胸の火放ちなば燃えむ

                           稲垣きくの

めいてきているとはいえ、唐突な雪があったり、一年のなかでもっとも寒さに敏感になる頃である。毎年バレンタインデー前後にことにそう思うのは、街やマスコミが盛り上げる赤やピンクのハートが飛び交うロマンチックの度合いと、わが身の温度差によるものだろうか。あまたある情熱的な句のなかでも、まっさきに浮かぶ一句が掲句である。ストレートにではないが、恋と示唆するにじゅうぶんな情熱が充溢し、それはどちらかというとおそろしいほどの様相である。しかし、掲句の前提は、その炎となる火を胸に秘めているというところに、作者の懊悩を共に感じ、またそれぞれが隠し持っている種火の存在に意識が届く。フルスロットルで詠う恋の句には健やかなまぶしさを覚えるが、ときには封じていた胸の奥の小部屋を覗いてみたくなるような作品に存分に酔いたくなる。『冬濤』(1966)所収。(土肥あき子)


February 2222011

 猫の子のおもちやにされてふにやあと鳴く

                           行方克巳

日猫の日。つながる2をニャンと読むものなので、日本限定ではあるものの、堂々と猫の句の紹介をさせていただく(笑)。あらゆる動物の子どもは文句なく可愛いものだが、ことに子猫となると自然と相好が崩れてしまう。小さいものへ無条件に感じる「かわいさ」こそ、赤ん坊の生きる力であるといわれるが、たしかに言葉ではあらわすことができない力が作用しているように思われる。掲句では「にゃあ」ではなく、「ふにゃあ」というところに子猫のやわらかな身体も重なり、極めつけの可愛らしさがあますところなく発揮されている。とはいえ、句集に隣合う〈子猫すでに愛憎わかつ爪を立て〉で、罪ない声を出しながら、一方で好き嫌いをはっきりと見定めている子猫の姿も描かれる。子猫はおもちゃにされながら、飼い主として誰を選ぼうかと虎視眈々と狙っている。〈恋衣とは春燈にぬぎしもの〉〈春の水いまひとまたぎすれば旅〉『地球ひとつぶ』(2011)所収。(土肥あき子)


March 0132011

 啓蟄のとぐろを卷いてゐる風よ

                           島田牙城

だ冬のコートをしまいきれないが、今日から3月。そして来週には啓蟄。地底深くぬくぬくと冬ごもりしていた虫たちが土のなかから出てくるには、まだちょっと早いんじゃないの、といらぬ心配をしたくなる。それでもひと雨ごとに春の陽気となっているのはたしかで、花はその身を外気にさらしているのだから花の時期を見極めているのだろうと推量できるが、土のなかにいる虫たちはどうしてそれを知るのだろう。ちょうど今時分、今年最初の雷が鳴り、これが合図になっていたと考えられて「虫出しの雷」という言葉もあるが、まさか聞こえているとは思えず、なんとも不思議な限りである。掲句がいう風は強くあたたかな南風かもしれないが、「とぐろ」と称したことでどこか邪悪な獣めいた匂いをもった。目が覚めてのんびり土から出た蛙が、一番最初に吹かれる風がこれでないことを祈っている。〈汗のをばさん汗のおぢさんと話す〉〈土までが地球紅葉は地球を吸ふ〉〈ひるまずに降る雪さては雪の戀〉『誤植』(2011)所収。(土肥あき子)


March 0832011

 春なれや水の厚みの中に魚

                           岩田由美

なれとは、春になったことの喜びを含む心地をいう。「春なれ」を使ったものに芭蕉の〈春なれや名もなき山の薄霞〉があるが、ここにも平凡な山にさえ春を愛でる心が動いてしまうという芭蕉の喜びを感じる。日に日に春らしくなっていくのは、花の蕾も草の芽も、なにもかも新品で揃えられていくように心楽しいものだ。川や池の水さえも、新しく入れ替えられたように、春の日差しのなかできらきらと輝いている。掲句は「水の厚み」といったところに、手触りを思わせる実感が生まれた。そしてそこに魚が泳ぐことに、命の神秘と美しさが込められた。春の喜びを詠む句は数あれど、掲句の中七から下五にかけてのリズムと風情は、一度口にしたら二度と忘れられない心地良さとなって、胸のなかを泳ぎまわる。『花束』(2010)所収。(土肥あき子)


March 1532011

 鳥雲に入る手の中の海の石

                           廣瀬悦哉

に渡ってきた鳥たちも、間もなく帰り仕度を始める頃だろう。梨木香歩の『渡りの足跡』は、住み慣れた場所を離れる決意をするときのエネルギーはどこから湧いてくるのか、という問いに渡り鳥の後を追いながら考えていく。観察記録とともに、動物として生きていくなかの「渡り」や「旅」の本質を探っていく繊細なエッセイに感銘したばかりなので、今年の鳥たちの様子は例年以上に気にかかる。それにしても、鳥が帰る時期を知るのは、なにかに誘導されるのだろうか。たとえば風が、たとえば雲が、鳥たちだけに分かる言葉で、そろそろ帰っておいで、とささやいているのかもしれない。掲句では、大陸へと引きあげる鳥の姿を思い描きつつ、ふと手に握った石を意識する。海の石。それは、人類になる前のずっとずっと昔の故郷の石である。ひんやりと冷たい小さな石が、一途に海へと針を向ける望郷のコンパスのように感じられる。〈啓蟄や黒猫艶やかに濡れて〉〈空つぽの鳥籠十六夜のひかり〉『夏の峰』(2011)所収。(土肥あき子)


March 2232011

 ものの種にぎればいのちひしめける

                           日野草城

眉刷毛万年青の芽
のの種とは、穀物や草花などのあらゆる種子をさす。種は、芽吹きを約束する希望のかたまりである。そっと手に乗せたのち、握りこぶしに力を込めれば、ひと粒ひと粒の種がちくちくと手のひらを刺激する。その心地よい痛みは、命の確かな存在であり、一面の実りを想像させる未来である。恐ろしいニュースが続けざまに流れるなか、パソコンの横に置いてあった眉刷毛万年青(まゆはけおもと)の種がいつの間にか発芽していた。土の上に置いた種から、臍の緒のような管が地面をまさぐるように伸び、接地面であらためて根をおろす。球根植物の神秘的な芽吹きは、不屈の精神と生への渇望を目の当たりにしているようで、健気にして頼もしく、そしてひたすら愛おしい。それは被災された多くの方々への思いにも重なり、愛すべき日常が一日も早く戻ることを、ただ祈り願うばかりである。『日野草城句集』室生幸太郎編(2001)所収。(土肥あき子)


March 2932011

 海暮れて春星魚の目のごとし

                           大嶽青児

方の魚類にはまぶたがないが、かわりにやわらかな透明の膜で覆われているため、陸に釣り上げられてからも常にきらきらと潤んで見える。とっぷりと日が暮れ、海が深い藍色から漆黒へと変わるとき、春の星がことさらやわらかに輝いて見える。それをまるで海中にいる魚たちの目のようだと感じる作者は、夜空を見上げながら魚のしなやかな感触と流線型を描いている。そして、作者の視線の先にある夜空は、豊饒の海原へと変わっていく。芭蕉の『おくの細道』冒頭の〈行く春や鳥啼魚の目は泪〉にも魚の目が登場する。映画『アリゾナ・ドリーム』で、主人公の魚に憧れる青年が「魚はなにも考えない。それは、なんでも知っているからだ」とつぶやく印象的なシーンがある。大嶽の満天に泳ぐ魚も、芭蕉の涙をためる魚も、どちらもなんでも知っている魚の、閉じられることのない目だからこそ、どこかに胸騒ぎを覚えさせるのだろう。『遠嶺』(1982)所収。(土肥あき子)


April 0542011

 入学写真いつも誰かがよそ見して

                           樋笠 文

つどんな写真でも、きれいな笑顔で写る知人にコツを聞いたことがある。秘訣は単純明快。「まばたきをしない」だった。そんなことが可能なのかと思うのだが、集合写真のときなどは「はい、撮りますよ」の掛け声まで目をつぶっているくらいでよいのだと言う。たしかに「いい顔」は長くは続かない。子どもであればなおさらだろう。隣の子が笑わせたり、後ろの子に髪を引っ張られたり、少しぼんやりしていたり。それにしても、全員きちんと正面を向いている集合写真が果たして必要なのかと、ふと思う。公平を旨とする現代では、皆同じ分量で写っていることが重要なのだろうか。うわの空だったり、俯いていたり、泣きべそかいていたり、そんな瞬間を切り取った集合写真の方が、時代を経たのちに記念になったりするのではないだろうか。それでも先生は毎年半分あきらめながら、あの手この手でカメラへ集中させようとする。そして、今日の入学式にもきっと誰かがよそ見をしていることだろう。俳人協会自註現代俳句シリーズ『樋笠文集』(1981年)所収。作者は小学校の先生。〈初蝶を入るる校門開きけり〉〈風光るジャングルジムに児が鈴生〉など明るく多彩。(土肥あき子)


April 1242011

 蝌蚪に脚生えて楽しくなくなりし

                           中山幸枝

の幼生である蝌蚪は、その姿から一般に「おたまじゃくし」と愛称され、昔から春の小川や池から家に連れてこられてきた。童謡の「おたまじゃくしは蛙の子」に続く歌詞の「やがて手が出る足が出る」とは反対に、まず後ろ脚が出てから前脚が出て、同時進行で尻尾が消えてなくなる。考えてみれば、たいへん大掛かりな変身である。その間、不要になる尻尾を栄養源として吸収し、一切の食料を口にせず、さらに手足が揃い始めれば陸地がなければ生きていけないという。生まれ親しんだ水中にいて、だんだん泳げなくなっていくとは、どれほど心細いことだろうと気を揉むが、少年少女の視線は掲句の通り少しばかり厳しい。愛嬌のある姿からの変化を「楽しくない」と思うのは、いかにも子どもらしく、おたまじゃくしはおたまじゃくしのまま大きくなってほしいのである。小学校低学年のときに牛蛙のおたまじゃくしを見たときの驚愕を覚えている。気持ち悪いなんてちっとも思わず、ただただ「すごい!」と興奮した。脚が生えずにひたすら大きくなるおたまじゃくしもいると、迷わず信じ込んだのだ。〈豆の花幼なじみのままおとな〉〈強力の荷に付いて来る天道虫〉『龍の玉』(2011)所収。(土肥あき子)


April 1942011

 うららかやカレーを積んで宇宙船

                           浅見 百

治4年に西洋料理としてお目見えしたカレーは、なにより白米に合うことが日本への定着に拍車をかけた。俳句にも〈新幹線待つ春愁のカツカレー〉吉田汀史、〈カレー喰ふ夏の眼をみひらきつ〉涌井紀夫 、〈秋風やカレー一鍋すぐに空〉辻桃子 、〈女正月印度カレーを欲しけり〉小島千架子、と四季を問わず登場する。そして今、国際宇宙ステーションにまで持ち込まれるという。JAXA(宇宙航空研究開発機構)で販売されている「宇宙食カレー」にはビーフ、ポーク、チキンと3種揃っているという。日本人の好物を調べた結果を見ると、どの世代にもラーメンとカレーが上位を占める。どちらも独自の進化をとげて日本の日常に溶け込んできた。あるときは家族に囲まれ、あるいはひとり夜中に、あらゆる人生の場面で顔を出してきた普段の食べ物が、ハレの日に食べてきた寿司や鰻を上回る票数を得て、好物としてあげられているのだ。成層圏を超えていく宇宙船に積まれているのが、普段の食事であるカレーだからこそ、思わず笑顔がこぼれるのである。『それからの私』(2011)所収。(土肥あき子)


April 2642011

 ふらここの漕がれていづこにも行けず

                           小室美穂

句を読んでふと疑問に思った。ぶらんこは一生に何度漕がれているのだろうか。日都産業調べによると耐用年数は吊金具5年、吊鎖7年、座板3〜5年程度とあった。ぶらんこの命ともいえる吊鎖を寿命として7年の生涯と考えてみた。漕がれる回数は、「ノンタンぶらんこのせて」を参考にする。ノンタンの近所にある公園のぶらんこは人気があって友達がたちまち順番待ちの列を作る。ノンタンは「10まで数えたら順番かわるよ」と言うので、ひとり10回。それを順番に3度くらい並び直すとして、ひとり30回。順番待ちする顔ぶれは、ウサギ×3、クマ、ぶた、たぬき。ノンタンを含め計7名並んでいる。これを平日毎日乗って7年間で計算すると、382,200回漕がれることになる。もし、漕ぐたびに1m進んでいたとすると382kmであり。これは東京から大阪あたりまで行ける。だからどうしたと言われればそれまでだが、「漕ぐ」とは自転車でもボートでも前に進むことをいうのに、ぶらんこだけは進めないと気づいた作者の気持ちが愉快で、ちょっぴり切ない。ぶらんこは今日も進んだ分だけ戻って、もとの場所に吊られている。〈髪洗ひ上げて華奢なる鎖骨かな〉〈一生をガラスに曝し老金魚〉『そらみみ』(2011)所収。(土肥あき子)


May 0352011

 あたたかし老人ホームの地図記号

                           藤崎幸恵

老人ホームの地図記号
人ホームの地図記号は2006年に制定された比較的新しい記号である。2005年に国土地理院が風力発電車と老人ホームの新しい地図記号のデザインを公募し、老人ホームは家の中に杖がデザインされている鳥取の小学生の作品が採用された。公募作品優秀賞にはハートのマークや手に手を取っているようなかたちなど、どれも愛が強調されている作品が目立って多かった。以前ならおそらく老人の「老」の文字を意匠したものや、腰が曲がった老人そのものをイメージさせるものが採用されたかと思う。老人ホームは、以前の家族が手に負えずやむなく世話になる場所という印象から、高齢者が安心して暮らせる施設としてイメージを好転させてきた。この先もっと明るく充実した場所になればいいと思う。数十年先にはおそらくお世話になるに違いない私にも、あらためてこの記号がほっこりあたたかく、愛おしく見えてくるのである。『異空間』(2011)所収。(土肥あき子)


May 1052011

 愛鳥週間拾ひし羽根を栞とす

                           齋藤もとじ

日から始まる愛鳥週間。アメリカ4月10日から始まる「バードデー」にならって日本でも1947年に導入されたが、南北に長い日本では4月ではまだ積雪が残る地域もあることから5月10日に変更された経緯がある。小鳥をとりまく生態系を含め守っていこうという愛鳥意識を高めることが目的だというが、日本人は昔から鳥に対して、ほかの動物とは違った深い愛情を注いできたと思う。たとえば、鳥の声の「聞做(ききなし)」などにも親近感が表れている。聞做は、鳥の声の調子や音色を身近な言葉に置き換えたもので、ホトトギスの「東京特許許可局」「てっぺんかけたか」、ツバメの「土食って渋ーい」、コジュケイの「ちょっと来い」などが有名である。ほかにも昔話の「雀のお宿」にしても、雀が女中さんに扮していても、嫌悪感を感じることはまずなく、雀なら可愛い仲居さんになれそうな気がする、とたやすく想像できる。掲句も、羽根ペンに使うような美しい羽根を見つけた作者が、躊躇なく手持ちの本に挟んで持ち帰ったことに多いに共感するのである。以前、わたしも落ちていた小さな羽根を押し花のように本に挟んでいた。意外だったのはいつまでたってもその頁を開くたびに、ふわっと羽根のかたちがよみがえることだった。ふわふわと風に乗っていきそうな羽根を見るたびに、このしなやかな羽根の持ち主が、今もどこかでにぎやかにさえずっている姿を思うのだ。「続氷室歳時記」(2007)所載。(土肥あき子)


May 1752011

 田水張る静謐といふ四角形

                           安徳由美子

前は6月上旬に一斉にしていた田植えも、現在ではゴールデンウイークに合わせて早めになったという。田植えを前に土をおこしたり、畦を作ったり、下準備を経て、いよいよ水を満たした田は、凛と張りつめした静謐そのものといった風情になる。全面に空を映し、鳥の影が渡り、わずかな風にささやかなさざ波を立てる。頼りない苗が風になびく植田は、青々と力強い青田へ、そして秋には黄金色の稲穂が揃う。この美しい移り変わりが、都会ではもう間近には見られないようになってしまった。田の漢字のありようが、耕作地と畦道であることをいつまでも当然と思いたいものだ。今月末、ようやく雪が消えて、準備が整った新潟に田植えをさせてもらいに行く。機械が余した片隅や変形部分を手植えする補植を体験する。はたして手伝いになるのか、どうか。しかし田水の張った聖なる四角に足を踏み入れるチャンスに、胸は高鳴るばかりである。〈ひしひしと我一人なり春の暮〉〈この坂を上れば未来花なづな〉『藻の花明かり』(2011)所収。(土肥あき子)


May 2452011

 花蜜柑匂ふよ沖の船あかり

                           武田孝子

柑の花が咲く頃になると、街全体が清々しい香りで包まれる。作者の出身は愛媛というから、同じ蜜柑王国である静岡出身の私の気分は大いに満たされる。少女時代、周囲を見回せばどこにでもあった穏やかな山々は、どこもいっぱいの陽光を注がれ、蜜柑の花を咲かせていた。童謡の「みかんの花咲く丘」もまた「思い出の道、丘の道」と起伏の多い土地であり、「遥かに見える青い海、お船が遠く浮かんでる」と、思わず重ねてしまうが、しかし掲句の眼目は夜であることだ。船の灯す沖の明かりの他は、ただ波音が繰り返される闇のなかに作者はいる。白く輝く花の姿はないが、作者にはまざまざと見えている。そしてその闇に咲き匂う純白のたたずまいこそ、作者が愛してやまない故郷そのものなのだろう。蜜柑の花は蜜柑の匂いがする。それをしごく当然と思っていたが、林檎や梨の花にはまったく果実の匂いがしない。こんなことにもなんとなく誇らしく思えるのだから、故郷というのは素敵である。『高嶺星』(2006)所収。(土肥あき子)


May 3152011

 水飲んで鈴となりけり更衣

                           岡本 眸

いコーヒーやお茶よりも、冷たい水をおいしいと思う陽気になった。ことに猫舌でもあるので、熱いものを喉へと流すおっかなびっくり感から解放され、躊躇なくごくごく飲めるというだけでも大いなる快感である。掲句の鈴は、まさに水が喉から胃の腑に届くあたりの感触を指しているのだと思う。ころんころんと水が収まっていく。身体の真ん中からすっと涼しくなるような心地よさが、薄着となった四肢にも響いてくるようだ。制服のある学校の多くは、明日から夏服へと一新する。街に白さが際立つようになり、女の子たちの鈴を転がすような笑い声がもっとも似合う季節でもある。『流速』(1999)所収。(土肥あき子)


June 0762011

 石棺に窓なかりけり蟇

                           神野紗希

になると毎年律儀にやってくる生きものに、庭の蟇と、玄関の守宮がいる。蟇は数年前からひと回り小さい新顔が加わった。門から続く踏み石に気に入りがあるらしく、それぞれ真ん中に堂々と居座っているため、人間の方が遠慮して踏み石をよけて行き来する。掲句では、石棺のなかの闇と、そこに詰められた空気の湿り気をじゅうぶんに伝えたのち、地上に八方睨みの態で仕えるがごとき蟇の姿が、哀愁を帯びた滑稽さで浮かびあがる。それは、わが庭の踏み石までもまるで石棺の蓋のように思わせ、頑として動かぬ蟇が奇妙な把手に見えてくる。地中からひしひしと這いのぼる夏を、大きな蟇が「まだまだ」、小さな蟇も「まだまだ」と息を合わせて押しとどめているようだ。このところ「石棺」「水棺」といえば、原子炉を封じ込める建造物として頻繁に登場する。どこか荒くれた神に鎮まっていただくようなその語感に、うさん臭さを感じるのはわたしだけではないだろう。古今東西、棺は常に破られ、出てくるのは不死身の化け物なのである。「俳句」(2011年6月号)所載。(土肥あき子)


June 1462011

 眺めよき死地から死地へ青嵐

                           宇多喜代子

地とは戦場かもしれず、また天災によって傷つけられた土地かもしれない。「眺めよき」とは甚だ物騒な表現だが、一切が空(くう)となった地をどのように表現しようかという苦悩が作者のなかにはあったはずだ。その思いが胸に巣食ったまま、本書のあとがきにたどりつけば、そこには「振り返れば一句の背後、消した百語千語や、時のひろがり、おもいの深みが蘇えってきます」と書かれていた。そこであらためて掲句を振り返れば、書かれては消された幾百の文字が、作者の祈りとなって渦巻きながらにじみ出ているように思えてきた。今はここに残された17音に、ただただ目を凝らし、人間と自然の姿に思いを馳せる。〈八月の赤子はいまも宙を蹴る〉〈かぶとむし地球を損なわずに歩く〉『記憶』(2011)所収。(土肥あき子)


June 2162011

 夏至の日の水平線のかなたかな

                           陽美保子

日は夏至。北半球では一年で一番日の長い日である。日本ではたまたま梅雨のさなかに訪れるので実感は乏しいが、北欧では夏至(ミッドサマー)はクリスマスと同じくらい大切にされている。夏至祭のシンボル「メイポール」は白樺の葉とさまざまな花で覆われ、美しい民族衣装に身を包んだ男女がポールの周りを輪になって歌い踊る。最近知った「FIKA(フィーカ)」なる言葉は、スウェーデン語でティーブレイクを意味する。スウェーデンに本社を持つ企業では、夏至のためのFIKAが取られるという。遠く離れた異国の文化に胸を打たれるのは、太陽を寿ぐという生きものとしての源に深く共感するからだろう。沈まない太陽が地平線を流れるように移動する北欧の夏至の日を思えば、掲句の水平線がまだ見ぬ国を思わせる。そして、太陽は今日も地球のすみずみまであまねく光りを行き渡らせる。〈まつすぐに足の伸びたる裸かな〉〈かたつむり殻を覗けばをりにけり〉『遥かなる水』(2011)所収。(土肥あき子)


June 2862011

 明易し絵具の棚の青の段

                           天野小石

近なところでmacのカラーインデックスを開いてみた。パレットのクレヨンは48色が配され、青とおぼしき種類だけでも7種類が並ぶ。薄い方からスカイ、アイス、アクア、ターコイズ、ブルーベリー、オーシャン、ミッドナイト、こうして文字にするだけでも涼やかな風が運ばれてくるようだ。日本の伝統色の青みに至っては、瓶覗(かめのぞき)やら紅掛空色(べにかけそらいろ)など、涼感というより、その名の生い立ちに深く興味を覚える。おそらく作者も、青系の絵具の並ぶ棚を眺め、そのグラデーションの美しさに目を奪われたのはもちろん、それぞれに付いたゆかしい名の由来に思いを馳せつつ、仄とした明易(あけやす)の時間に身を置いているのだろう。暁から薄明、東雲、曙と深い闇から明るい瑠璃色へと移り変わる夜明けもまた、空の青の段を楽しめる時間である。『花源』(2011)所収。(土肥あき子)




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