成人の日に東京が大雪だったのは何年前だったか。今年はカラカラ。(哲




2011ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012011

 この一匹成人の鯛なりき亡父よ

                           駒走鷹志

人の日が巡ってくるたびに、ポール・ニザンの有名な一行を思い出す。「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。『アデン・アラビア』を読んだのは二十歳を過ぎてからだったが、いつもこの言葉には共感してきた。実際、二十歳とはつづけてニザンが言ったように、ひでえ年頃である。「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも」。現代の二十歳が自分の年齢をどう感じているのかは知らないが、掲句の作者はそうした辛さを踏まえた上で、なお冥界の亡父(ちち)に二十歳になった喜びを報告しているのだと思う。存命でともに祝えれば、どんなに嬉しいだろうか。そんな思いが切々と伝わってくる。が、残酷なことを言うようだが、この感情は父が不在だからこそ湧いてくるのであって、もし存命ならば、作者もまたニザンのように家族や世間の祝福などは昂然と拒否したかもしれない。つまり、今日成人式を迎えた若者たちのなかで、最も生きていることの喜びを味わう者は、父との死別などなんらかの欠落を背負った者たちだろう。かつての私のように何の感慨もなくこの日をやり過ごす若者ばかりではないことを、掲句がひりひりと教えてくれた。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


January 0912011

 餅間のピザの出前もよからずや

                           尾亀清四郎

語は餅間(もちあい)。歳時記によりますと、昔は年末だけではなくて小正月にも餅をついたようで、小正月前の餅がなくなった時期のことを言うようです。最近は年末でさえ餅をつく家がほとんどありません。まして小正月に餅をついているところなど、一度も見たことはありません。それでもこの句がちょっと分かるのは、正月のお雑煮やお節が続くと、もうご馳走にうんざりしてきて、いつものあたりまえな食事が懐かしくなってくるからなのです。トーストとコーヒーで済ませたいなと思ったり、お茶漬けやカレーライスが無性に食べたくなったりもしてくるのです。長年生きているから、そんなことはとうに分かっているわけですが、それでも正月近くになると、お雑煮を楽しみにする心が湧いてくるのは、悲しいかな、どうしても押しとどめることができません。『角川俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 0812011

 子の祈り意外に長き初詣

                           小川龍雄

供の頃の初詣の記憶は定かでない。近所のお稲荷さんにちょこちょこ手を合わせていたことは覚えているが、思い出すのは狐の顔と首に巻かれた赤い布が恐かったことぐらいだ。それはきっと、初詣といっても言われるままに形だけ手を合わせ、わけも分からず頭を下げていたからだろう。お願い事をする、というのは良くも悪くも欲が生まれるということで、成長のひとつといえる。この句の「子」は成人男子、父と二人の初詣か。家族の健康と仕事の事少々、くらいを願って顔を上げた父は、目を閉じてじっと手を合わせている息子の横顔をしばし眺めている。願うというよりは祈るような真剣なその横顔に、一人前の男を感じている父。意外に、という主観的な言葉には、父親としての感慨と同時にいくばくかの照れが感じられてほほえましくもある。同人誌『YUKI』(2010年冬号)所載。(今井肖子)




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