鏡開き。といっても鏡餅は無い。お汁粉でもつくりたいところ。(哲




2011ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1112011

 遠吠えが遠吠えを呼ぶ霜夜かな

                           松川洋酔

ょうど本日1が重なるワンワンワンの日に合わせて犬の句を。遠吠えとは、犬や狼が身に危険を察知したときにする情報伝達のための呼び声である。町で飼われている犬たちが、パトカーや救急車のサイレンに反応するという現象は、サイレンの高低が遠吠えに似ているためといわれ、大きな車が危険を知らせながら猛スピードで通り抜ける姿に、縄張りを荒らされていると勘違いしたペットが威嚇のリレーをする。群れから遠ざかり、人間との生活が長い犬が、遠吠えという犬同士でしか理解できない声を手放さない事実に切なさを感じるのは、過去の歴史のなかで野生の獣として走り回っていた姿があったことを強く思い出させるからだろう。霜が降りる夜は気温が低く、よく晴れ、風のない日だという。張りつめたような霜の夜、犬が持つ高性能の鼻や耳は、なにを嗅ぎ分け聞き分けているのだろう。イギリスの作家サキの傑作「セルノグラツ城の狼」では、ある家柄の者が死に近づくと森の狼が一斉に遠吠えをする。これが実に誇り高く美しいものだった。掲句に触発され、読み返している。〈明らかに戻りしあとや蜷の道〉〈炭足してひととき暗くなりにけり〉『家路』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1012011

 この一匹成人の鯛なりき亡父よ

                           駒走鷹志

人の日が巡ってくるたびに、ポール・ニザンの有名な一行を思い出す。「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。『アデン・アラビア』を読んだのは二十歳を過ぎてからだったが、いつもこの言葉には共感してきた。実際、二十歳とはつづけてニザンが言ったように、ひでえ年頃である。「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも」。現代の二十歳が自分の年齢をどう感じているのかは知らないが、掲句の作者はそうした辛さを踏まえた上で、なお冥界の亡父(ちち)に二十歳になった喜びを報告しているのだと思う。存命でともに祝えれば、どんなに嬉しいだろうか。そんな思いが切々と伝わってくる。が、残酷なことを言うようだが、この感情は父が不在だからこそ湧いてくるのであって、もし存命ならば、作者もまたニザンのように家族や世間の祝福などは昂然と拒否したかもしれない。つまり、今日成人式を迎えた若者たちのなかで、最も生きていることの喜びを味わう者は、父との死別などなんらかの欠落を背負った者たちだろう。かつての私のように何の感慨もなくこの日をやり過ごす若者ばかりではないことを、掲句がひりひりと教えてくれた。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)


January 0912011

 餅間のピザの出前もよからずや

                           尾亀清四郎

語は餅間(もちあい)。歳時記によりますと、昔は年末だけではなくて小正月にも餅をついたようで、小正月前の餅がなくなった時期のことを言うようです。最近は年末でさえ餅をつく家がほとんどありません。まして小正月に餅をついているところなど、一度も見たことはありません。それでもこの句がちょっと分かるのは、正月のお雑煮やお節が続くと、もうご馳走にうんざりしてきて、いつものあたりまえな食事が懐かしくなってくるからなのです。トーストとコーヒーで済ませたいなと思ったり、お茶漬けやカレーライスが無性に食べたくなったりもしてくるのです。長年生きているから、そんなことはとうに分かっているわけですが、それでも正月近くになると、お雑煮を楽しみにする心が湧いてくるのは、悲しいかな、どうしても押しとどめることができません。『角川俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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