昔は葱一本でも売ってくれる八百屋があった。どこかに無いかな。(哲




2011ソスN1ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1212011

 打ちあげて笑顔のならぶ初芝居

                           松本幸四郎

年の「壽初春大歌舞伎」(初芝居)は1月2日に幕があいた。東京では歌舞伎座が改築中なので、新橋演舞場や浅草公会堂などで26日まで。演し物は「御摂勧進帳」「妹背山婦女庭訓」他。大阪は大阪松竹座で上演中である。もう早々にご覧になった方もいらっしゃるでしょう。毎年のこととはいえ、初芝居は出演者それぞれに新鮮な緊張感があるものらしい。千龝楽まで無事に終わって打ちあげともなれば、出演者はもとよりスタッフ一同ホッとして笑顔笑顔の打ちあげであろう。他の興行でも同様だろうと思われるが、大所帯で初芝居を終えての達成感・安堵感は格別のもがあるのは当然。幸四郎は八代目幸四郎(白鸚)の長男として生まれ、三歳の時に初舞台を踏んだ。幸四郎がかつて「俳句朝日」に連載していた俳句に、私は親しんだことがあるけれど、虚子に学んだ祖父中村吉右衛門(初代)の一句「雪の日や雪のせりふを口ずさむ」が、自分を俳句の世界に誘ってくれたと述懐しており、「ひょっとしたら俳句は、神からの短い『言葉の贈り物』なのかもしれない」とも書いている。掲句は『松本幸四郎の俳遊俳談』(1998)に収めた句と、その後の句を併せて編集された句集『仙翁花』(2009)に収められたなかの一句。他に「神々の心づくしの雪の山」がある。初芝居と言えば、宇多喜代子に「厄介なひとも来てをり初芝居」がある。(八木忠栄)


January 1112011

 遠吠えが遠吠えを呼ぶ霜夜かな

                           松川洋酔

ょうど本日1が重なるワンワンワンの日に合わせて犬の句を。遠吠えとは、犬や狼が身に危険を察知したときにする情報伝達のための呼び声である。町で飼われている犬たちが、パトカーや救急車のサイレンに反応するという現象は、サイレンの高低が遠吠えに似ているためといわれ、大きな車が危険を知らせながら猛スピードで通り抜ける姿に、縄張りを荒らされていると勘違いしたペットが威嚇のリレーをする。群れから遠ざかり、人間との生活が長い犬が、遠吠えという犬同士でしか理解できない声を手放さない事実に切なさを感じるのは、過去の歴史のなかで野生の獣として走り回っていた姿があったことを強く思い出させるからだろう。霜が降りる夜は気温が低く、よく晴れ、風のない日だという。張りつめたような霜の夜、犬が持つ高性能の鼻や耳は、なにを嗅ぎ分け聞き分けているのだろう。イギリスの作家サキの傑作「セルノグラツ城の狼」では、ある家柄の者が死に近づくと森の狼が一斉に遠吠えをする。これが実に誇り高く美しいものだった。掲句に触発され、読み返している。〈明らかに戻りしあとや蜷の道〉〈炭足してひととき暗くなりにけり〉『家路』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1012011

 この一匹成人の鯛なりき亡父よ

                           駒走鷹志

人の日が巡ってくるたびに、ポール・ニザンの有名な一行を思い出す。「僕は二十歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」。『アデン・アラビア』を読んだのは二十歳を過ぎてからだったが、いつもこの言葉には共感してきた。実際、二十歳とはつづけてニザンが言ったように、ひでえ年頃である。「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも」。現代の二十歳が自分の年齢をどう感じているのかは知らないが、掲句の作者はそうした辛さを踏まえた上で、なお冥界の亡父(ちち)に二十歳になった喜びを報告しているのだと思う。存命でともに祝えれば、どんなに嬉しいだろうか。そんな思いが切々と伝わってくる。が、残酷なことを言うようだが、この感情は父が不在だからこそ湧いてくるのであって、もし存命ならば、作者もまたニザンのように家族や世間の祝福などは昂然と拒否したかもしれない。つまり、今日成人式を迎えた若者たちのなかで、最も生きていることの喜びを味わう者は、父との死別などなんらかの欠落を背負った者たちだろう。かつての私のように何の感慨もなくこの日をやり過ごす若者ばかりではないことを、掲句がひりひりと教えてくれた。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)




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