国家はいいよなあ。赤字になれば増税すればいいんだから。(哲




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January 1712011

 老人のさすられどほし日向ぼこ

                           大木あまり

ょっと見には、まことに微笑ましい光景だ。昨年は父母のこともあり、介護施設などに行く機会が多かった。秋口くらいから、職員が自力では歩けない年寄りを車椅子に乗せて日向ぼこをさせる図をよく見かけたものだ。サービスの一貫なのだろう。そんなときに実際に老人の背中などをさする場合もあるけれど、職員の多くは物理的にさするというよりも、「言葉でさする」場合が圧倒的に多い。「今日はあったかくて気持ちが良いねえ」などと、職員は元気づけようとして、とにかく慰めや励ましの言葉を連発するのである。掲句の光景も、そんな日向ぼこを詠んでいるのだと思う。しばらく見ていると、たいていの老人は黙りこくったままだ。「うん」でもなければ「ああ」でもなく、無表情である。が、そんなことはおかまい無しに職員は話しかけつづける。見ていて、私はだんだん腹立たしくなってきた。一方的な言葉の「さすり」は、これはもう暴力の行使なのであって、彼ないしは彼女はちっとも喜んではいないじゃないか。「お前の口にチャックをかけろ」と叫びたくなってくる。「さすられどほし」はかえって不愉快なことが、何故わからないのか。根本的にマニュアルが間違っているのだ。さりげないが、掲句はそんな状況を告発しているのだと読んだ。俳誌「星の木」(第6号・2010年12月25日)所載。(清水哲男)


January 1612011

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

                           富田木歩

木風はそのまま「ふゆきかぜ」と読みます。日本語らしい、よい言葉です。ところで、ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろうと思います。普通に考えれば親でしょうか。でも、私も亡くなった父親の夢を時折に見ることはありますが、たいていは若いころの、元気の良かった姿ばかりです。親父の死んだときの夢なんて、見たことはありません。それに、夢に見ているときというのは、つらいことは現実よりもさらにつらく感じるので、人の死の夢を見るなんて、想像するだけでも胸が苦しくなってきます。あんまりつらい夢を見ているときには、そのつらさに耐えられずに目が覚めてしまうことがあります。ああ夢でよかったと、布団の中で安堵したことがこれまで幾度もあります。でも、この句はそうではなく、もっと素直に、死んだ人たちに夢の中で会えて懐かしかったと、まっすぐに受け止めればよいのかもしれません。死も、一生という夢の中の、一部なのだから。『作句歳時記 冬』(1989・講談社)所載。(松下育男)


January 1512011

 折鶴のふつくらと松過ぎにけり

                           峯尾文世

が家では正月七日に松飾りをはずすが、所によってさまざまらしく、ひとくくりに関東と関西で異なるとも言えないようだ。ともあれ、松がとれれば松過ぎ、普段通りの生活に戻るが、年が改まったという新しい心地がしばらく残っている。今年の東京は、寒の入りからぐっと冷えこんで来てこれからが寒さも本番だなと思いながら、この句を読んで久しぶりに鶴を折ってみた。直線で形作られた折鶴に最後に息を吹きこむと背中がふくらんで、その独特の姿が完成する。テーブルにそっとのせると、午後の日差しが折鶴にうすい影を作っている。確かに寒いけれど、小正月が過ぎれば立春まで三週間を切るのだとふと思う。冬至の頃、これからは昼が長くなる一方と少しうれしくなるように、松過ぎには待春の心が芽生えるものなのだなと、折鶴の背中のやわらかな曲線を見つつあらためて感じた。上智句会句集「すはゑ(木偏に若)」(2010年8号)所載。(今井肖子)




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