小学時代の教室の暖房は大火鉢。当番が早めに登校して準備した。(哲




2011N118句(前日までの二句を含む)

January 1812011

 梟やわが内股のあたたかし

                           遠藤由樹子

ーロッパでは森の賢者と呼ばれ、日本では死の象徴とされてきた梟は、動物園やペットとして飼われているものでさえ、どこか胸騒ぎを覚えさせる鳥である。集中前半に収められた〈梟よ梟よと呼び寝入りけり〉の不穏な眠りを象徴した梟が印象深かったこともあり、後半に置かれた掲句にも丸まって太ももの間に手をはさんで横になる姿勢を重ねた。左右の脚の間にできるわずかな空間のやわらかなぬくもりが、安らかな心地を引き寄せる。それは自分で自分を抱きしめているような慈しみに満ち、そして少しさみしげでもある。おそらく胎児の頃から親しんできたこのかたちに、ひとりであることが強調されるような様子を見て取るからだろう。寒さに耐えかねてというより、さみしくてさみしくてどうしようもないときに、人は自らをあたためるようなこの姿勢を取ってしまうのだと思う。血の通うわが身のあたたかさに安堵と落ち着きを取り戻したのちは、元気に起き上がる朝が待っている。『濾過』(2010)所収。(土肥あき子)


January 1712011

 老人のさすられどほし日向ぼこ

                           大木あまり

ょっと見には、まことに微笑ましい光景だ。昨年は父母のこともあり、介護施設などに行く機会が多かった。秋口くらいから、職員が自力では歩けない年寄りを車椅子に乗せて日向ぼこをさせる図をよく見かけたものだ。サービスの一貫なのだろう。そんなときに実際に老人の背中などをさする場合もあるけれど、職員の多くは物理的にさするというよりも、「言葉でさする」場合が圧倒的に多い。「今日はあったかくて気持ちが良いねえ」などと、職員は元気づけようとして、とにかく慰めや励ましの言葉を連発するのである。掲句の光景も、そんな日向ぼこを詠んでいるのだと思う。しばらく見ていると、たいていの老人は黙りこくったままだ。「うん」でもなければ「ああ」でもなく、無表情である。が、そんなことはおかまい無しに職員は話しかけつづける。見ていて、私はだんだん腹立たしくなってきた。一方的な言葉の「さすり」は、これはもう暴力の行使なのであって、彼ないしは彼女はちっとも喜んではいないじゃないか。「お前の口にチャックをかけろ」と叫びたくなってくる。「さすられどほし」はかえって不愉快なことが、何故わからないのか。根本的にマニュアルが間違っているのだ。さりげないが、掲句はそんな状況を告発しているのだと読んだ。俳誌「星の木」(第6号・2010年12月25日)所載。(清水哲男)


January 1612011

 夢に見れば死もなつかしや冬木風

                           富田木歩

木風はそのまま「ふゆきかぜ」と読みます。日本語らしい、よい言葉です。ところで、ここで懐かしがっているのは、だれの死なのだろうと思います。普通に考えれば親でしょうか。でも、私も亡くなった父親の夢を時折に見ることはありますが、たいていは若いころの、元気の良かった姿ばかりです。親父の死んだときの夢なんて、見たことはありません。それに、夢に見ているときというのは、つらいことは現実よりもさらにつらく感じるので、人の死の夢を見るなんて、想像するだけでも胸が苦しくなってきます。あんまりつらい夢を見ているときには、そのつらさに耐えられずに目が覚めてしまうことがあります。ああ夢でよかったと、布団の中で安堵したことがこれまで幾度もあります。でも、この句はそうではなく、もっと素直に、死んだ人たちに夢の中で会えて懐かしかったと、まっすぐに受け止めればよいのかもしれません。死も、一生という夢の中の、一部なのだから。『作句歳時記 冬』(1989・講談社)所載。(松下育男)




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