本体のも外付けのもHDが満杯に。やりくりするのも限界に来た。(哲




2011ソスN1ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2112011

 手を容れて冷たくしたり春の空

                           永田耕衣

本尚毅さんの「手をつけて海のつめたき桜かな」と並べて鑑賞すると面白い。「したり」は能動。自分の手が空を冷たくするのだ。直感的に空よりも手の方が冷たいという比較を強調しているように思う。そして句の中には自分と春の空の二者が登場する。それに対して岸本さんの方は手と海と桜の三者が登場する。空間の奥行はこちらの方が構成的。耕衣作品は「春の空」を擬人化しているようにも見える。その分、文学臭が強いようでもある。『殺佛』(1978)所収。(今井 聖)


January 2012011

 M列六番冬着の膝を越えて座る

                           榮 猿丸

技場の座席を思うか、劇場の座席を思うかで状況はだいぶ変わってくる。天皇杯、ライスボール、全国大学ラグビー、一月は見ごたえのある試合が目白押し。そういえば冬の競技場の雰囲気はナイターと雰囲気が違うなぁ。掲句を読んで思った。座席が狭くて、「すみません、すみません」と膝を脇へよけてもらいながら自分の席に座る状況はいっしょだが、ナイターの場合はひょいひょいと軽快に越えてゆく感じ。カクテル光線に照らし出された球場のざわめきも冬の競技場のそれとは違う。冬着の膝なんてまわりくどい言い方をせずに「着ぶくれ」という季語があるじゃないか、と見る向きもあろうが、季語はときには現実世界を大雑把にくるんでしまう。着ぶくれは上半身にポイントが置かれ、脚の動きは置き去りにされる感じ。字余りを押して書かれた座席番号と冬着の膝に微妙なニュアンスが感じられる。『超新撰21』(2010)所収。(三宅やよい)


January 1912011

 思うことなし山住みの炬燵かな

                           石川啄木

の人は思考停止の状態で、炬燵に入っているのだろう。失意の果て今は何も思わず考えず? 北海道時代の啄木のある日ある時の自画像かもしれないが、啄木のことだから、まったくのフィクションとも考えられる。「山住み」ゆえにのんびりとして、暇を持て余し所在なく炬燵にもぐっている。今は何ごとにも手をつける気力もなく、ただ炬燵で時をやり過ごして、何の意欲もわいてこない。まあ寒い時季に、妙にあくせくしているよりはむしろ好ましいか。失意のどん底にあるというわけでもなさそうだ。「……渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」ではないが、啄木の歌には「思ふ」という言葉が頻繁に遣われている。「ことさらに燈火を消して/まぢまぢと思ひてゐしは/わけもなきこと」――暗がりでわけもないことに思い煩っているよりは、「百年(ももとせ)の長き眠りの覚めしごと/あくびしてまし/思ふことなしに」、つまり余計なことに思い煩わされることなく、炬燵であくびでもしていましょうや、というわけか。啄木の俳句は数が少なく、しかもいずれも月並句のレベルを出ない。年譜からも、幾多の解説の類からも啄木句はほとんど無視されている。だから上手下手はともかく、逆に珍しさが先に立つ。啄木の思考や感情は、俳句という表現形式では盛りきれなかった。十七文字と三十一文字の差異を改めて見せつけられる。ほかに「冬一日火に親しみて暮れにけり」がある。いかにも啄木。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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