増俳ミラー版が復活しました。何かのときのためにURLのメモを。(哲




2011ソスN1ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2212011

 水鳥のいくつも浮かぶカプチーノ

                           彌榮浩樹

瞬、カプチーノのほわっとした泡の上に、鳥たちがのんびり浮かんでいるような気がしてしまう、浮かぶ、で切れるとわかっていても。作者は池を見渡せるティールームで、水に遊ぶ鳥たちを眺めながら、ゆっくりカプチーノを楽しんでいるのだろう。これが、白鳥の、とか、鴛鴦の、などと言われてしまうと、まずそれらの鳥の映像がはっきり浮かぶので、カプチーノの上には浮かばない。いくつも、という言葉も、具体的な鳥だったら逆に、何羽くらいなんだろう、などと考えてしまう。水鳥、という大づかみな表現が、いくつも、という言葉の曖昧さを広がりに変えて、カプチーノの泡とともに句全体から、冬日が漣となっている池の空気を感じさせている。『鶏』(2010)所収。(今井肖子)


January 2112011

 手を容れて冷たくしたり春の空

                           永田耕衣

本尚毅さんの「手をつけて海のつめたき桜かな」と並べて鑑賞すると面白い。「したり」は能動。自分の手が空を冷たくするのだ。直感的に空よりも手の方が冷たいという比較を強調しているように思う。そして句の中には自分と春の空の二者が登場する。それに対して岸本さんの方は手と海と桜の三者が登場する。空間の奥行はこちらの方が構成的。耕衣作品は「春の空」を擬人化しているようにも見える。その分、文学臭が強いようでもある。『殺佛』(1978)所収。(今井 聖)


January 2012011

 M列六番冬着の膝を越えて座る

                           榮 猿丸

技場の座席を思うか、劇場の座席を思うかで状況はだいぶ変わってくる。天皇杯、ライスボール、全国大学ラグビー、一月は見ごたえのある試合が目白押し。そういえば冬の競技場の雰囲気はナイターと雰囲気が違うなぁ。掲句を読んで思った。座席が狭くて、「すみません、すみません」と膝を脇へよけてもらいながら自分の席に座る状況はいっしょだが、ナイターの場合はひょいひょいと軽快に越えてゆく感じ。カクテル光線に照らし出された球場のざわめきも冬の競技場のそれとは違う。冬着の膝なんてまわりくどい言い方をせずに「着ぶくれ」という季語があるじゃないか、と見る向きもあろうが、季語はときには現実世界を大雑把にくるんでしまう。着ぶくれは上半身にポイントが置かれ、脚の動きは置き去りにされる感じ。字余りを押して書かれた座席番号と冬着の膝に微妙なニュアンスが感じられる。『超新撰21』(2010)所収。(三宅やよい)




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