もうあかん追儺の豆に歯がたたず(小寺正三)。ご同様です。(哲




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February 0322011

 恐るべき年取豆の多きかな

                           木村たみ子

さい頃は豆の数が少ないのが不満だった。自分よりたくさん豆がもらえる兄や姉が羨ましく、年をとるたび掌に乗せる豆が増えるのが嬉しかった。いつからだろう豆の数が疎ましくなったのは。「恐るべき」というぐらいだから片手に山盛りだろうか。子供たちも大人になった今は鬼の面をかぶることも豆まきをすることもなくなった。試しに年の数だけ手に乗せると溢れそうである。「鬼は外」と大きな声で撒くに恥ずかしく、ぽりぽり齧るには多すぎて、まさに「恐るべき」豆の多さである。「死にたしと時には思へ年の豆」高橋龍の句のように自分の年齢へ辛辣な批判を加えてみるのもひとつの見方だろうが、山盛りの豆に怖気つつ、又ひとつ豆を加えられる無事を感謝したい。『水の音』(2009)所収。(三宅やよい)


February 0222011

 憶い出にもたれて錆びる冬の斧

                           高岡 修

かなる「憶い出」なのだろうか。それは知る由もないけれど、句全体の表情から推察するに明るく楽しいという内容ではあるまい。その「憶い出」に、まがまがしくもひんやりとした重たい斧がドタリともたれたまま、使われることなく錆びつつある。それは作者の心のありようか、あるときの姿かもしれない。さらに、この「憶い出」は斧自身の憶い出でもあろう。錆びる斧も錆びるナイフも本来の用をなさない。「錆びた」ではなく、「錆びる」という進行形に留意したい。ここでは思うように時は刻まれていない。いや、意に反して「錆びる」という逆行した時のみが刻まれているのである。詩人でもある修は、句集のあとがきで「詩・短歌・俳句・小説という文学ジャンルにおいて俳句はもっとも新しい文学形式である」と断言している。そうかもしれない。いちばん古い(旧弊な)文学形式は小説ではあるまいか、と私は考えている。掲句とならんで「愛のあと野に立ちくらむ冬の虹」がある。斧と言えば、誰しも佐藤鬼房の「切株があり愚直の斧があり」を想起するだろう。修は加藤郁乎の「雨季来りなむ斧一振りの再会」を新興俳句以降の代表句五句の一つとしてあげている。掲句を含む最新句集『蝸牛領』と既刊三句集をあわせ、『高岡修句集』(2010)としてまとめられた。(八木忠栄)


February 0122011

 おさなごの息がルーペに花はこべ

                           池田澄子

こべは、はこべらとも呼ばれ、漢字では「繁縷」。こんな難しい字を背負っていたのかと驚くが、道端や庭の片隅などでよく見かける、いかにも雑草然とした地味な草である。米粒ほどの白い花は、よくよく見れば星の形をしていて確かに味わい深く可愛らしいが、あらためて振り返るような花ではない。しかし、尽きることのない子どもの好奇心の前では別だ。一度ルーペを渡せば、小さな手が探偵よろしく、家のなかから庭先まで飽きることなく覗きまわる。新しいことを知りたい気持ちが押し寄せて、ルーペが曇るのも構わず小さな花と向かい合うのだ。思えば、大人になればなるほど、目をつぶる機会は多くなる。年を重ねるごとに腹立たしいことやむなしいことばかりが目につき、自分の心を穏やかに保つために、なるべく見たり聞いたりしないようにするのが人の世の保身術であり処世術なのである。掲句に触れ、なにごとにも目を凝らしていた時代のわくわくした気持ちを思い出すことができた。息で曇ったルーペを拭えば、すぐそこまで迫っている春の姿が映っているかもしれない。「俳句α」(2011年2-3月号)所載。(土肥あき子)




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