丸山豊記念現代詩賞選考会。内規により発表は月末になります。(哲




2011ソスN2ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0722011

 畦道に豆の花咲く別れかな

                           星野 椿

は出会いの季節でもあるが、別れの季節でもある。句の「別れ」がどんな別れだったのかは、知る由もない。おかげで、逆に読者はこの句に自分だけの感情を自由に移入することができる。と言っても、この「別れ」が今生の別れなどという大仰なものでないことは、添えられた「豆の花」のたたずまいから連想できる。可憐な雰囲気を持った花だ。だから青春期の一コマとして読んでもいいし、ちょっとした旅立ちの人への思いとして読んでもいいだろう。いずれにしても、また会える希望のある「別れ」として詠まれている。ただ私くらいの年齢になると、お互いにちょっとした別れのつもりが永遠のそれになったりすることも体験しはじめているので、作者の意図を越えて、句に悲哀感を加味して読むということも起きてくる。このときに「豆の花」の可憐さは少々こたえる。一期一会の象徴のように思えてきてしまう。どんな句に対しても読者の年齢にしたがって、解釈は少しずつ異なるだろう。そんな句の典型かなあと、しばし思ったことである。『金風』(2011)所収。(清水哲男)


February 0622011

 大学レストランカレーにほはす春浅く

                           山口青邨

十年代初めに早稲田大学に通っていました。時々その頃のことを思い出します。本当は経済を学ばなければならなかったのに、高田馬場の古本屋で、詩集ばかりを立ち読みしていました。帷子耀、山口哲夫、金石稔など、当時まぶしかった詩人を、何時間も食い入るように読んでいました。友人があまりいなかったので、学食ではたいてい一人でうつむいて食べていました。40年経った今でも、あの時のうどんの値段だけは覚えています。30円、メニューの中で一番安くて、よく食べていたから。本日の句にあるように、学食に入った時に匂うのは、うどんではなくカレーのほうです。ああ食べたいなと思って、それから財布の中身を確認して、うどんにするか、あるいはたまにはカレーにするかを決めるわけです。懐かしいなと思うあの日々は、私の人生の春も、まだ春浅くでありました。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 0522011

 鉛筆をまだ走らせず大試験

                           高瀬竟二

試験は、入学試験、卒業試験、進級試験などをいうが、現在は俳句にしか見られない言葉だろう。二月から三月はどうしても、受験や大試験の句に目がいってしまう。この句は、大切な試験なのだからともかく問題を熟読、慌てないでよく考え構想を練ってから書こう、という落ち着いた様子とほどよい緊張感が感じられる。つい、試験監督をしている視点で読むと、走らせず、にやや不安感が見え、試験が始まってしばらく経つのに鉛筆を握りしめたままかたまっている受験生が見えてしまう。でもここは、走らせないのは意志であり、沈思黙考する姿は溜めた力を一気に出して合格することを暗示している、と読みたい。『初鶏』(1998)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます