針供養。ボタン付けなどやったものだが、今は針に糸が通せるか。(哲




2011ソスN2ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0822011

 紅梅は語り白梅聴いてゐる

                           岩岡中正

梅には、なにものにもかなわない清楚な美しさがある。同じ花ながら、梅ほど色によって性格が分けられるものはないと思われる。立春前から咲き始める白梅に感じられる凛とした美しさは、寒さのなかで耐えている健気さとあいまったものである。一方、寒も明けて春の兆しをはっきり感じられる頃に咲き始める紅梅に、苦労なしの横顔を見つけるもの梅を愛好する者の感じかたのひとつだろう。紅白の梅に相反する気性を認めたうえで、さらに新鮮な発見を与えてこそ、俳句に描かれた梅は生き生きと色彩を得る。掲句同様、紅白の梅の文学的真実は檜紀代の〈紅梅のふたつ年下白梅は〉にも表れる。梅の紅は積極的、白は控えめと印象づけながら、しかし日が落ち、夜ともなれば紅梅はすっかり闇に溶け込んでしまう。夜道に漂う梅の香りに、あたりを見回せば、浮き立つような姿を見せるのは白梅である。昼は聞き役となっていた白梅が、その姿を夜目にも鮮やかに浮き立たせるあたりも、梅のひと筋縄ではいかない面白さであるように思う。じきに桜に花の座を取られてしまう態の梅だが、花は香りと思うむきには梅の花がなにより勝っていると確信する春浅き夜である。『春雪』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0722011

 畦道に豆の花咲く別れかな

                           星野 椿

は出会いの季節でもあるが、別れの季節でもある。句の「別れ」がどんな別れだったのかは、知る由もない。おかげで、逆に読者はこの句に自分だけの感情を自由に移入することができる。と言っても、この「別れ」が今生の別れなどという大仰なものでないことは、添えられた「豆の花」のたたずまいから連想できる。可憐な雰囲気を持った花だ。だから青春期の一コマとして読んでもいいし、ちょっとした旅立ちの人への思いとして読んでもいいだろう。いずれにしても、また会える希望のある「別れ」として詠まれている。ただ私くらいの年齢になると、お互いにちょっとした別れのつもりが永遠のそれになったりすることも体験しはじめているので、作者の意図を越えて、句に悲哀感を加味して読むということも起きてくる。このときに「豆の花」の可憐さは少々こたえる。一期一会の象徴のように思えてきてしまう。どんな句に対しても読者の年齢にしたがって、解釈は少しずつ異なるだろう。そんな句の典型かなあと、しばし思ったことである。『金風』(2011)所収。(清水哲男)


February 0622011

 大学レストランカレーにほはす春浅く

                           山口青邨

十年代初めに早稲田大学に通っていました。時々その頃のことを思い出します。本当は経済を学ばなければならなかったのに、高田馬場の古本屋で、詩集ばかりを立ち読みしていました。帷子耀、山口哲夫、金石稔など、当時まぶしかった詩人を、何時間も食い入るように読んでいました。友人があまりいなかったので、学食ではたいてい一人でうつむいて食べていました。40年経った今でも、あの時のうどんの値段だけは覚えています。30円、メニューの中で一番安くて、よく食べていたから。本日の句にあるように、学食に入った時に匂うのは、うどんではなくカレーのほうです。ああ食べたいなと思って、それから財布の中身を確認して、うどんにするか、あるいはたまにはカレーにするかを決めるわけです。懐かしいなと思うあの日々は、私の人生の春も、まだ春浅くでありました。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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