我が家は分家なので初の葬儀となる。勝手がよくわからない。(哲




2011ソスN2ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1622011

 雪の上に/回転木馬をめぐって/馬の歩いた跡

                           ヴィンセント・トリピ

文は〈in the snow/around the carousel/tracks of a horse vincent tripi〉。雪が降った朝の公園だろうか。来てみると回転木馬の周囲に、馬が歩いたひづめの跡が残っているーーまあ、句そのままの意味合いだが、もしかして夜中に回転木馬たちのなかの一頭(a horse)が所定の場所を離れて、周囲を回転するように自由にのびのびと歩いたのかもしれない。そう考えるとファンタスティックな絵とイメージが加わる。それはしっかり固定されている木馬たちの見果てぬ夢なのかもしれない。閉園した真夜中の回転木馬のファンタスティックなドラマ、その入口を思わせるような俳句である。あるいは、どこかからお茶目な馬がやってきて、自由がきかない木馬たちにこれ見よがしに、その周囲を歩きまわって見せたと想定してみるのも楽しい。海外での俳句がさかんであることは、以前から言われている。北米でも、最も大きいアメリカ・ハイク協会が一九六八年に創設された。句会も定期的に開催され、同人誌も発行されているという。広大な北米大陸では、雪深いニューイングランドと雪のないロサンゼルスとでは、季節感に当然大きなへだたりがある。掲句はボストン・ハイク協会が主催したコンテストでの受賞作。上田真訳『俳句とハイク』(1994)所収。(八木忠栄)


February 1522011

 この枯れに胸の火放ちなば燃えむ

                           稲垣きくの

めいてきているとはいえ、唐突な雪があったり、一年のなかでもっとも寒さに敏感になる頃である。毎年バレンタインデー前後にことにそう思うのは、街やマスコミが盛り上げる赤やピンクのハートが飛び交うロマンチックの度合いと、わが身の温度差によるものだろうか。あまたある情熱的な句のなかでも、まっさきに浮かぶ一句が掲句である。ストレートにではないが、恋と示唆するにじゅうぶんな情熱が充溢し、それはどちらかというとおそろしいほどの様相である。しかし、掲句の前提は、その炎となる火を胸に秘めているというところに、作者の懊悩を共に感じ、またそれぞれが隠し持っている種火の存在に意識が届く。フルスロットルで詠う恋の句には健やかなまぶしさを覚えるが、ときには封じていた胸の奥の小部屋を覗いてみたくなるような作品に存分に酔いたくなる。『冬濤』(1966)所収。(土肥あき子)


February 1422011

 病室の母に小さき雛飾る

                           林まあこ

がつけば、二月も半ば。雛を飾っているお宅も多いだろう。作者の母上は入院中なので、この年は病室に小さなお雛さまを飾ってあげた。娘としての優しい心根はよく出ているが、それだけといえばそれだけの句である。しかし、私たちの日常生活では、それだけのことが、当事者にはそれだけの何倍もの感慨を呼び覚ましてくれることも多いのだ。豆雛だろうか。病室のまことに小さなテーブルの片隅にちょこんと飾られたお雛さまは、他のどんな豪華な雛飾りよりも、母上を喜ばせたことだろう。私事に及ぶが、この一年間ほどは、両親ともに入院している病院に何度も見舞いに通ってきた。通っているうちに気がついたのは、病室というところでは四季の移ろいがほとんど感じられないことだった。一年中室温は同じに保たれているし、窓は不透明なカーテンで覆われており、むろん風なども入ってはこない。外からの音もあまり聞こえない。そんな部屋に、せめてもと花を飾ろうとしたら、禁じられていた。花は生きものだから、雑菌なども一緒に持ち込むことになり、病院にしてみれば大いに迷惑なのである。そんな私の個人的な事情があるので、この句をそれだけの句として突き放す気にはなれないのだった。近々見舞いに行くときには、豆雛を持っていこうと思う。『真珠雲』(2011)所収。(清水哲男)




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