こういうときだな、ファシズムや怪しげな宗教が湧いてくるのは。(哲




2011ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622011

 茹で過ぎの菠薐草のやうな日も

                           菱田瞳子

の回りや国内外のさまざまなニュースに、なんとなく沈みがちな気分のまま歳時記や句集などをあれこれ読んでいて『彩 円虹例句集』(2008)でこの句と出会った。そろそろ旬も終わりの菠薐草だが、誰でも一度は茹ですぎてしまったことがあるだろう。確かに、茹ですぎた菠薐草は美味しくなく、食べ物を詠む時は美味しそうに詠むように、と言われる。でも、そうそう、そんな日もあるよなあと頷きながらほっこりしてしまった。後悔先に立たず、くたくたでしょぼしょぼ、アクと言われるシュウ酸はもとより栄養も何もかもすっかり抜けて、濃い緑色がかえって空しい。この例句集、菠薐草の項の最後の一句は〈菠薐草食べてでつかい夢を持て〉(山田弘子)。さほど深刻ではないけれどちょっと残念な一日は終わって、また明日が来る。(今井肖子)


February 2522011

 紅梅に干しておくなり洗ひ猫

                           小林一茶

うやって干したんだろう。枝に縛ったりしたとは思えない。木の上に上らせて置いたということの比喩だとしたら、猫が意味もなく木の上に長く留まるとは考えにくい。だいいち昔も猫を洗ったということが僕には新鮮。僕の子供の頃は人間様でも毎日は銭湯に行かなかったし、髪なんか週一くらいしか洗わなかった。一茶の時代ならもっと間隔が空いていただろうに、そんな時代に猫を洗うとは。野壺にでも落ちたか。今の俳句ならヨミの許容範囲が広がっているので、「紅梅に」で軽い切れを入れて読む読み方もあるかもしれぬ。猫は別の場所に干してあるという鑑賞だ。それから、馬や牛を洗うのが夏の季題だから、猫を洗うのもやっぱり夏がふさわしくて、紅梅とは季節感がずれる、なんて言いそうだな、現代は。僕は、猫は絶対に紅梅の木の上にいると思う。この句の魅力はこのユーモアが現代にも通じること。河豚を食べたがなんともなかったとか、落花が枝に帰るかと思ったら蝶だったとか、古句の中のユーモアはあまり面白くないことが多いが、この句、今でも十分面白い。『一茶秀句』(1964)所収。(今井 聖)


February 2422011

 梅林や学生寧ろ海を見る

                           榎本冬一郎

年この時期になると青梅の吉野郷に梅を見に行く。山また山に梅が咲き乱れる様子は見事ではあるが、兵庫の綾部梅林などは頂上近くから瀬戸内海が一望できるらしい。海を臨む日当たりのよい斜面にある梅の木々を思うだけで気持ちがいい。そんな梅林で観梅する人々と違う方向に視線を振り向けている学生の様子が作者の注意を引いたのだろう。今は若者から老人まで同じようにカジュアルな服装をしているが、掲載句の作られた昭和30年代といえば、普段でも制服、制帽の着用が普通だった時代。だからすぐ学生とわかったのだろう。目の前の梅ではなくかなたの水平線をじっと見詰めている彼は、未知の世界へ心を駆り立てられているのだろう。何時の世も青年たちは遠い眼で海を見詰めてきた。現代の若者も梅林より寧ろ海に心引かれるだろうか。「現代俳句全集」四巻(1958年)所載。(三宅やよい)




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