春三月。春は曙もよいけれど、夕暮れの雰囲気のほうが好きだ。(哲




2011ソスN3ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0132011

 啓蟄のとぐろを卷いてゐる風よ

                           島田牙城

だ冬のコートをしまいきれないが、今日から3月。そして来週には啓蟄。地底深くぬくぬくと冬ごもりしていた虫たちが土のなかから出てくるには、まだちょっと早いんじゃないの、といらぬ心配をしたくなる。それでもひと雨ごとに春の陽気となっているのはたしかで、花はその身を外気にさらしているのだから花の時期を見極めているのだろうと推量できるが、土のなかにいる虫たちはどうしてそれを知るのだろう。ちょうど今時分、今年最初の雷が鳴り、これが合図になっていたと考えられて「虫出しの雷」という言葉もあるが、まさか聞こえているとは思えず、なんとも不思議な限りである。掲句がいう風は強くあたたかな南風かもしれないが、「とぐろ」と称したことでどこか邪悪な獣めいた匂いをもった。目が覚めてのんびり土から出た蛙が、一番最初に吹かれる風がこれでないことを祈っている。〈汗のをばさん汗のおぢさんと話す〉〈土までが地球紅葉は地球を吸ふ〉〈ひるまずに降る雪さては雪の戀〉『誤植』(2011)所収。(土肥あき子)


February 2822011

 風に鳴るビルや春闘亡びゆく

                           水上孤城

闘の季節だ。と言っても、いまの若い人にはピンと来ないだろう。賃金の引上げや労働時間の短縮などといった労働条件の改善を要求する労働運動である。経済が右肩上がりの時代には、大手企業でなくとも、会社の壁には組合のビラが貼られ、社員は闘争中を示す腕章を巻いて仕事をしていたものだった。労使双方ともに春闘をごく当たり前のこととして受け入れ、交渉のテーブルについていた。振り返ってみれば、春闘にはどこかお祭り感覚も含まれていた。私が体験した例では、組合の賃上げ要求額に会社側が更に上乗せして回答してきた春もあり、組合の役員だった私は赤っ恥をかかされることになったのだった。しかし、不景気が進行するにつれて、闘争自体を見直さざるを得なくなり、賃上げもボーナスも無しという会社も増えてきて、掲句のように寒々とした感覚に支配されるようになってしまった。春闘そのものが亡びつつあり、そのうちには死語になりそうである。いまや若者は、正社員として就職できるだけで良しとしなければならない時代だ。こんな時代になろうとは…。春先の風は冷たく、春ゆえに余計に冷たさが身にしみる。『水の歌』(2011)所収。(清水哲男)


February 2722011

 この道しかない春の雪ふる

                           種田山頭火

がわかる、というのは詠まれている意味内容に不明な点がないということだけではありません。語られていることがわかっても、どうしてこんなことを句にするのだろうと、思っているうちはたぶんわかっていないのです。あるいは、もともと理解を届かせるほどの句ではないということもあります。今日の句は、意味内容ということでは、前半と後半がどのようにつながっているのかが明解ではありません。でも、全体をそのまま素直に受け止めると、不思議とわかるのです。わかったような気分にさせてくれるのです。そこが大切なのだと思うのです。「この道しかない」と、決断した思いの切れ味と、目の前に降っている柔らかな雪のありさまが、ちょうどよく釣り合っているのです。そうだそうだ、こういうふうにしか詠ってはいけないのだと、思わせてくれる句は、理屈抜きにすごいなと思うわけです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)




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