すっかり忘れていたけれど、確定申告のリミットが近づいている。(哲




2011ソスN3ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 0732011

 過ぎ去つてみれば月日のあたたかし

                           山田弘子

来「あたたか」は春の季語だが、掲句の場合は明らかに違う。強いて春に結びつけるならば「心理的な春」を詠んでいるのだからだ。ただこのことが理屈ではわかっても、実感として染みこんでくるのには、読者の側にもある程度の年輪が必要だ。若年では、とうてい実感できない境地が述べられている。詩人の永瀬清子に『すぎ去ればすべてなつかしい日々』というエッセイ集があって、昔手にしたときには、なんと陳腐なタイトルだろうと思ったものだが、本棚の背表紙を見るたびに、加齢とともにだんだんその思いは薄らいでいった。父が逝ってからまだ三週間ほどしか経っていないけれど、父とのいろいろなことが思い出され、こっぴどく叱られたことも含めて、それらの月日は不思議に「あたたか」いものとして浮かび上がってくる。そして同時に、自分を含めた人間の一過性の命にいとおしさが湧いてくる。それなりの年齢に達したことが自覚され切なくもあるが、春愁に傾いていく心は心のままに遊ばせておくことにしよう。いまさらあがいてみたって、何もはじまりはしないと思うから。『彩 円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)


March 0632011

 春服にポケットのなき不安かな

                           鹿野佳子

ケットという、かわいらしい響きのためでしょうか。あるいは、まど・みちおの「ふしぎなポケット」を連想するからでしょうか。ポケットというものは、どこか、よいことにつながる通路のような心持がします。春になり、分厚いコートを脱ぎ、さらにジャケットを脱いで身軽になったあとで、でも、どこか物足りない気分がするのはどうしてでしょうか。ああそうか、冬服にはあっちにもこっちにもあったポケットの数が、急に減ってしまったのでした。このポケットには財布を、こちらには定期券とハンカチをと、しまう場所を決めていたもの達も、テーブルの上に置かれて、困り果てています。どこにもしまえなくなった小物たちが、徐々に明るくなってくる春の日射しの下で、持ち主と一緒に、途方に暮れているのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


March 0532011

 鶯もちいろを抓みていただきぬ

                           八田木枯

餅、うぐいす餅、うぐいすもち、鶯もち。それぞれ印象がずいぶん違う。餅、より、もち、の方がしっとりとした質感があり、うぐひす、より、鶯、の方が即座にその色と形が見える。色、は、いろ、とした方が、もちのなめらかさを損なわず、抓む、はその字にある「爪」によっていかにも、指でそっとつまむ、という感じがする。そして、食べる、ではなく、いただく。いただきぬ、とやわらかく終わることによって、ほんのりとした甘さが余韻となって残る。漢字か平仮名か、どの言葉を使うか、その選択によって目から受ける印象のみならず一句の余韻も変わる、ということをあらためて感じた。『俳壇』(2011年3月号)所載。(今井肖子)




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