March 092011
足のうら足をはなれてはるのくれ
武田 肇
春は身も心も浮き立つ季節である。日も永くなってきて、やわらかい日ざしのなかを、どこまでも歩いて行きたい心地がする。軽快に歩いているうちに、うっかりしていつのまにか、足のうらが足を離れてしまったような錯覚に陥ってしまったというのであろう。うん、わかります。夢うつつの境地での散策なのかもしれない。足跡には足を離れてしまった足のうらが、名残りのようにそっくりそのまま、ずっと春の宵の口のほうまで、ひたひたつづいているのだ、きっと。足をなくした足のうら、足のうらをなくした足――春なればこそのややこしい椿事? 春の暮ならではの奇妙な時空が、そこに刻みこまれているように思われる。「…はなれて/はるのくれ」の「ha」音の連続が心地よい。「春の暮」と「春の夕」とでは暗さの重みのニュアンスが微妙にちがう。肇は句集にこう記している。「俳句も進化すべきであり、必然的に進化するであらう。もつといへば季題に内在する普遍的な力がさうさせる筈である」。他の句に「あしのうらはどこからきたかあまのがは」「春風や引戸に掛ける手のかたち」などがある。『ダス・ゲハイムニス』(2011)所収。(八木忠栄)
September 032014
内股(うちもも)に西瓜のたねのニヒリズム
武田 肇
掲句を含む句集『同異論』(2014)は、作者がイタリア、スペイン、ギリシアなどを訪れた約二年間に書かれた俳句を収めた、と「あとがき」に記されている。したがって、その海外旅行中に得られた句である可能性もあるが、そうと限ったものでもあるまい。西瓜は秋の季語だけれども、まだ暑い季節だから内股を露出している誰か、その太い内股に西瓜の黒いタネが付着しているのを発見したのであろう。濃いエロチシズムを放っている。国内であるか海外であるかはともかくとして、その「誰か」が女性であるか男性であるかによって、意味合いも鑑賞も異なったものになるだろう。「ニヒリズム」という言葉の響きからして、男性の太ももに付着したタネを、男性が発見しているのではあるまいか、と私は解釈してみたい。でも、白くて柔らかい「内股に…たね」なら女性がふさわしいだろうし、むずかしい。作者はそのあたりを読者に任せ、敢えて限定していないフシもある。おもしろい。「西瓜のたねのニヒリズム」という表現は大胆であり、したたかである。同じ句集中に「ニヒリズム咲かぬ櫻と來ぬ人と」「ニヒリズム春の眞裏に花と人」がある。著者七冊目の句集にあたる。(八木忠栄)
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