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2011ソスN3ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 1832011

 ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ

                           寺田京子

というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井 聖)


March 1732011

 時刻表レレレレレレレ春嵐

                           渡辺テル

車が通過するのを表す「レ」記号は片仮名のレに見える。通過駅を表すこの記号がいつから使われているのか鉄道に詳しい人ならわかるかもしれない。掲句は特急が警笛を鳴らしながら風を巻き起こして通過していく様子から嵐を想像したのか、レレレレと口ずさんでみれば特急に乗って旅している気分にもなる。昨年の7月時刻表を片手にローカル線を乗り継いで気仙沼、釜石を廻り遠野を旅した。先週の金曜日に強い揺れがおさまった直後、職場でつけたテレビで海鮮丼を食べた桟橋や宿泊したホテルが津波に飲み込まれてゆく映像を見て息をのんだ。海を見下ろす駅で、美しい景色を楽しむ観光客のために長めに停車してくれた三陸鉄道の運転士さん。旅先で出会った方々、どうかご無事でと祈るばかりだ。金曜日の午後を境にあのプラットホームから眺めた景色が消え心の冷える現実が残ったことが未だに信じられずにいる。「つぐみ」(2010.No103 10周年記念号)所載。(三宅やよい)


March 1632011

 すこしだけ振子短くして彼岸

                           美濃部治子

分の日(三月二十一日)の前後三日間を含めた一週間がお彼岸。だから、もうすぐ彼岸の入りということになる。彼岸の入りを「彼岸太郎」「さき彼岸」とも呼び、彼岸の終わりを「彼岸払い」「後の彼岸」などとも呼ぶ。昼と夜の長さが同じになり、以降、昼の時間が徐々に長くなって行く。人の気持ちにも余裕が戻る。まさしく寒さも彼岸まで。それにしても振子のある時計は、一般の家庭からだいぶ姿を消してしまった。ネジ巻きの時計は、もっと早くになくなってしまった。振子の柱時計のネジをジーコジーコ、不思議な気持ちで巻いた記憶がまだ鮮やかに残っている。時計の振子を「すこしだけ」短くするという動きに、主婦のこまやかな仕草や、何気ない心遣いがにじんでいる。治子は、十代目金原亭馬生の愛妻で、落語界では賢夫人の誉れ高い人だった。酒好きの馬生がゆっくり時間をかけて飲む深夜の酒にも、同じ話のくり返しにも、やさしくじっとつき合っていたという証言がある。馬生の弟子たちは、この美人奥さんを目当てに稽古にかよったとさえ言われている。馬生は一九八二年に五十四歳の若さで惜しまれて亡くなり、俳句を黒田杏子に教わった治子は二〇〇六年、七十五歳で亡くなった。他に「初富士や両手のひらにのるほどの」がある。彼岸といえば、子規にはご存知「毎年よ彼岸の入に寒いのは」がある。『ほほゑみ』(2007)所収。(八木忠栄)




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