欲しいデジカメの生産工場がダウンしていたが、復活したようだ。(哲




2011ソスN3ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3032011

 初燕一筆書きで巣にもどる

                           岡田芳べえ

西日本で越冬する燕もいるけれど、春の彼岸頃に南からやってくる燕は、待ちに待った春の到来を強く感じさせる。「燕」「燕来る」「初燕」……いずれも春の季語であり、夏は「夏燕」、秋には「燕帰る」となる。かの佐々木小次郎の「燕返し」ではないが、勢いよく迅速に飛ぶ燕の様子は、まさしく鮮やかな「一筆書き」そのものである。掲句は、一筆書きの筆勢によってダイナミックに決まった。これから巣を整えて子づくりの準備に入るのだろう。燕は軒や梁に巣をつくるが、それは縁起のいいものとして歓迎される。山口誓子には「この家に福あり燕巣をつくる」という句がある。子どもの頃、苗代づくりを控えた時季に、広い田園地帯で遊んでいると、燕がいかにも気持ち良さそうにスーイ、スーイと高く低く飛び交っているのに出くわして、面食らったりしたものだ。同時に、気持ちが晴れ晴れと昂揚してくるのを覚えた。凡兆には「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」という、いかにも往時の上方の街あたりを想わせる一句がある。『毬音』2(2008)所載。(八木忠栄)


March 2932011

 海暮れて春星魚の目のごとし

                           大嶽青児

方の魚類にはまぶたがないが、かわりにやわらかな透明の膜で覆われているため、陸に釣り上げられてからも常にきらきらと潤んで見える。とっぷりと日が暮れ、海が深い藍色から漆黒へと変わるとき、春の星がことさらやわらかに輝いて見える。それをまるで海中にいる魚たちの目のようだと感じる作者は、夜空を見上げながら魚のしなやかな感触と流線型を描いている。そして、作者の視線の先にある夜空は、豊饒の海原へと変わっていく。芭蕉の『おくの細道』冒頭の〈行く春や鳥啼魚の目は泪〉にも魚の目が登場する。映画『アリゾナ・ドリーム』で、主人公の魚に憧れる青年が「魚はなにも考えない。それは、なんでも知っているからだ」とつぶやく印象的なシーンがある。大嶽の満天に泳ぐ魚も、芭蕉の涙をためる魚も、どちらもなんでも知っている魚の、閉じられることのない目だからこそ、どこかに胸騒ぎを覚えさせるのだろう。『遠嶺』(1982)所収。(土肥あき子)


March 2832011

 列島をかじる鮫たち桜咲く

                           坪内稔典

いぶ前にはじめてこの句を読んだとき、一コマ漫画みたいだなと思った。真ん中に日本地図があって、周囲の海から獰猛な目つきの鮫たちが身を乗り出すようにして、容赦なくガリガリと列島をかじっている。地図の上では、そんなこととは露知らぬ人たちが暢気に開花したばかりの花に浮き立っている図だ。みんなニコニコと上機嫌である。といって、句はそんな人間の営みを揶揄しているのでもなく、批評しているわけでもない。ただ、人間とはそうしたものさと言っているのだと思う。どこか滑稽でもあり、同時に切なくもなる。そして、再びいまのような状況の中で読んでみると、この句の味わいはより鋭く心に刻まれるようだ。日本中に善意の押し売りが蔓延し、「がんばろう日本」などという空疎なスローガンが飛び交うなかで、この句のリアリティが増してくる事態を、どう考えればよいのか。テレビのCMで頻繁に流れてくる金子みすゞの「みんな良い人」みたいな詩よりも、こういうときにこそ、せめてこういう句を流せるようなタフな国になってほしいものだと思う。『百年の家』(1995)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます