悪夢のような三月は去るが、悪夢は現実として居座りつづける。(哲




2011ソスN3ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

March 3132011

 白すみれ關西へゆくやさしさよ

                           新妻 博

こ10年東京に住んでいるが話すときある種の緊張感がつきまとう。関西に戻り家族や友人と会話して初めて身体の底にある土地の言葉が自由に躍動する感じがする。新幹線を降りて在来線に乗り換え、関西弁のざわめきに包まれるとほっとする。「そやねえ」「ほんまに」と語尾の柔らかさに故郷の心地よさを感じる。関西生れの私にとっては「関西へゆくやさしさ」はそのような体験と重なるが作者にとって「やさしさ」を感じるのはどんな時なのだろう。可憐な「白すみれ」を配合に持ってきているぐらいだから彼の地にはんなりと明るいイメージを抱いているのだろうか。では関西を関東に置き換えるならどうなるだろう。そしてそれにふさわしい花は?句を眺めながらしばし考えている『立棺都市』(1995)所収。(三宅やよい)


March 3032011

 初燕一筆書きで巣にもどる

                           岡田芳べえ

西日本で越冬する燕もいるけれど、春の彼岸頃に南からやってくる燕は、待ちに待った春の到来を強く感じさせる。「燕」「燕来る」「初燕」……いずれも春の季語であり、夏は「夏燕」、秋には「燕帰る」となる。かの佐々木小次郎の「燕返し」ではないが、勢いよく迅速に飛ぶ燕の様子は、まさしく鮮やかな「一筆書き」そのものである。掲句は、一筆書きの筆勢によってダイナミックに決まった。これから巣を整えて子づくりの準備に入るのだろう。燕は軒や梁に巣をつくるが、それは縁起のいいものとして歓迎される。山口誓子には「この家に福あり燕巣をつくる」という句がある。子どもの頃、苗代づくりを控えた時季に、広い田園地帯で遊んでいると、燕がいかにも気持ち良さそうにスーイ、スーイと高く低く飛び交っているのに出くわして、面食らったりしたものだ。同時に、気持ちが晴れ晴れと昂揚してくるのを覚えた。凡兆には「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」という、いかにも往時の上方の街あたりを想わせる一句がある。『毬音』2(2008)所載。(八木忠栄)


March 2932011

 海暮れて春星魚の目のごとし

                           大嶽青児

方の魚類にはまぶたがないが、かわりにやわらかな透明の膜で覆われているため、陸に釣り上げられてからも常にきらきらと潤んで見える。とっぷりと日が暮れ、海が深い藍色から漆黒へと変わるとき、春の星がことさらやわらかに輝いて見える。それをまるで海中にいる魚たちの目のようだと感じる作者は、夜空を見上げながら魚のしなやかな感触と流線型を描いている。そして、作者の視線の先にある夜空は、豊饒の海原へと変わっていく。芭蕉の『おくの細道』冒頭の〈行く春や鳥啼魚の目は泪〉にも魚の目が登場する。映画『アリゾナ・ドリーム』で、主人公の魚に憧れる青年が「魚はなにも考えない。それは、なんでも知っているからだ」とつぶやく印象的なシーンがある。大嶽の満天に泳ぐ魚も、芭蕉の涙をためる魚も、どちらもなんでも知っている魚の、閉じられることのない目だからこそ、どこかに胸騒ぎを覚えさせるのだろう。『遠嶺』(1982)所収。(土肥あき子)




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