睡眠中だけが平安な心持ち。でも、それも適わぬ人たちが大勢。(哲




2011ソスN4ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1442011

 あつ雉子あつ人だちふ目が合うて

                           西野文代

物の雉子にはなかなかお目にかかれないが、名古屋に住んでいたころ、山林を切り崩して宅地を造成している道へ出てきた雉子を見かけたことがある。もちろんそばには近寄れず、遠くから双眼鏡で眺めただけだったが、住み場所を荒らされたあの雉子はどこへ行ったやら。それにしてもこの句、山道かどこかでばったり雉子と鉢合わせをしたのだろうか。「あ、雉子」と声にならない声をあげている人の驚きは勿論のこと、雉子の目にも狼狽の色を読み取っている。こういう出会いは人間からの視点になりがちだけど、目を白黒させている雉子の気持ちになって「あ、人だ」と言わせているのがおかしい。ほんとに雉子は焦っただろうな。仮名遣いの妙を生かして瞬間の情景を生き生きと描き出している。いいなぁこういう句。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


April 1342011

 うばぐるま突きはなしたる花吹雪

                           安東次男

東次男はいつも背筋をピンと伸ばして、凛乎とした詩人だった。彼の作品や言動もまたそのような精神に貫かれていた。掲句は、そうした詩精神によって生まれた一句だと言える。「うばぐるま」と「花吹雪」という二物の狭間に打ち込まれた「突きはなしたる」という勁い表現によって、いやが上にも緊張感は増したと言える。赤児が乗せられているうばぐるまは、通常は母親が押しているはずだが、何かの事情で母親がそれを突きはなしてしまったのか、母親がしっかり押しているうばぐるまを、すさまじい花吹雪が突きはなしてしまったのか。――実景であるにせよ、心的現象であるにせよ、ハッとさせる勢いがある。上五、中七、下五、それぞれが押し合うようにして、張りつめた緊張感をくっきり放っている一句である。何ごとかを思いつめた若い母親像が、厳しく立ち上がってくるようである。今さら引用するまでもないだろう、橋本多佳子の「乳母車」の句もそうだが、「乳母車」というものは、俳句に不思議なパワーをもたらすように思われる。映画「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段で、下降する乳母車の有名なシーンを思い出す。既刊の『安東次男全詩全句集』に未収録の俳句と詩を中心に、中村稔が編纂した『流火草堂遺珠』(2009)に収められた。他に「ふるさとの氷柱太しやまたいつ見む」も。(八木忠栄)


April 1242011

 蝌蚪に脚生えて楽しくなくなりし

                           中山幸枝

の幼生である蝌蚪は、その姿から一般に「おたまじゃくし」と愛称され、昔から春の小川や池から家に連れてこられてきた。童謡の「おたまじゃくしは蛙の子」に続く歌詞の「やがて手が出る足が出る」とは反対に、まず後ろ脚が出てから前脚が出て、同時進行で尻尾が消えてなくなる。考えてみれば、たいへん大掛かりな変身である。その間、不要になる尻尾を栄養源として吸収し、一切の食料を口にせず、さらに手足が揃い始めれば陸地がなければ生きていけないという。生まれ親しんだ水中にいて、だんだん泳げなくなっていくとは、どれほど心細いことだろうと気を揉むが、少年少女の視線は掲句の通り少しばかり厳しい。愛嬌のある姿からの変化を「楽しくない」と思うのは、いかにも子どもらしく、おたまじゃくしはおたまじゃくしのまま大きくなってほしいのである。小学校低学年のときに牛蛙のおたまじゃくしを見たときの驚愕を覚えている。気持ち悪いなんてちっとも思わず、ただただ「すごい!」と興奮した。脚が生えずにひたすら大きくなるおたまじゃくしもいると、迷わず信じ込んだのだ。〈豆の花幼なじみのままおとな〉〈強力の荷に付いて来る天道虫〉『龍の玉』(2011)所収。(土肥あき子)




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