国産煙草が殆ど姿を消した。遠野で見かけた煙草農家を思い出す。(哲




2011ソスN4ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1842011

 茅花抜く遠きひかりの中にいて

                           早川三千代

かしい情景だ。子供の頃、よく茅花(つばな)を抜いて食べていた。それも、片手に握れるだけたくさん抜こうと、要するに風流心のかけらもなく、食い気一本で春の野を這えずりまわったものだった。茅花はチガヤの花のことだが、若い花穂は綿のようにやわらかくて、少し甘い味がする。この句の作者が抜いているのは、もう少し成長してからのものだろう。むろん食い気からなどではなくて、その美しい銀白色の花を愛でるためである。おだやかな春の日差しをあびながら、一本か二本くらいをすっと抜いてみている。そしてその日差しは、実は遠い過去のものである。「遠きひかり」のなかでは、作者の姿がシルエットのように浮かび上がっており、もはや夢とも現とも分かちがたい情景だ。類句はありそうだが、いかにも俳句らしい詠みぶりの心休まる一句だと思った。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 1742011

 春めくを図形で言へば楕円かな

                           平川 尭

中を歩いていると、見ているだけで胸の奥まですっと気持ち良くなる形があります。かというと、どうもおさまりがつかなくて落ち着かない形もあります。目の前にそびえているビルの形だったり、遠くに浮かんでいる雲の形だったり、レストランの看板の形だったり、何の理由もないのに、なぜか心に影響を与える形が、たしかにあります。でもそれは、単に「ちょっと気になる」というだけのものです。でも、そのちょっと気になるものに、一日中心がとらわれてしまうことだって、あるわけです。今日の句、春めくを楕円と感じるのは、個人的な感覚と言うよりも、だれでもが持つ共通の感じ方なのかもしれません。楕円の、長い方のひろがりに、ホッとしたものが入っていると感じられるからです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


April 1642011

 花人にのぞき見られて花に住む

                           藤木和子

週水曜日に花の散り込む目黒川に沿って歩いた時、川に面したマンションの住人だろう、二階のベランダでお花見をしていた。手の届くところに花の枝が伸びていて、その近景と延々と続く桜並木の遠景は素晴らしいに違いなく、うらやましく見上げたのだった。この句の作者のお住まいは、のぞき見られているのだからマンションではないだろう。庭にみごとな桜の木があるのか、桜並木沿いにお住まいなのか、ともかく花時にはたくさんの人がそのお庭や窓を見ながら通り過ぎる。「観る」視線のまま歩く花人は、花以外もついついじっと見てしまうのかもしれない。この句からは、それを楽しむ余裕と、四季折々の自然の中でのゆったりとした暮らしぶりが感じられる。ちなみに、目黒川沿いのフェンスには近くの小学生が詠んだ俳句を書いた短冊がくくりつけてあった。その中に「春の川ピンクできれいいい季節 高松」という一句があり、そういえばいい季節だということを忘れていたな、とあらためて感じている。『ホトトギス新歳時記』(2010・三省堂)所載。(今井肖子)




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