April 302011
この国の未知には触れず春惜む
竹下陶子
未知という言葉はその時の心持ち如何で、希望にあふれているようにも不安で一杯のようにも感じられる。今、この国の未知、と読むとどうしても後者の気分が勝ちそうだが、この句が詠まれたのは、昭和五十八年。日本海中部地震があった年だが、地震が起きたのは五月二十六日なので、春惜む、より後のこと。まあいつの世でも、安心立命の境地にはなかなか至ることができない。ただ、国の先行きを憂うというより、未知という言葉に可能性を残しながら、さらにそれにはあえて触れることなく、今は春を惜しんでいる作者。このいい季節が、来年もまた巡ってくるようにと、勢いを増す緑の中で願っているのだろう。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)
August 272011
古稀の杖つけば新涼集まれる
竹下陶子
先週末、一雨に新涼を実感した。週が明けてからは再び残暑の毎日だが、法師蝉が夏休みの終わりを告げている。掲出句、作者にとっては、新涼の風を感じるといった、ふとした感覚ではなく、新涼がまさに集まってきたのだ。この句の二年前の作に〈 新涼やギプス軽き日重たき日〉とあり、リハビリを経てこの年は暑い間は大事をとって家居されていたのだろう。杖をついての外出も初めてか、そこにはためらいもあったに違いない。人生七十古来稀、まあ致し方なしというところか、と外に一歩を踏み出した時の作者の静かな中にも深い感動が、新涼の風と共に伝わってくる。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|