祝日でも休日でもない月曜日だが、やはりいつもと感じが違う。(哲




2011蟷エ5譛2譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

May 0252011

 新品の島だ若葉を盛り上げて

                           大住日呂姿

放しの新緑賛歌。気持ちの良い五月の風も吹いている。しかし、この島にも目には見えない死の灰が……。などと、作者の意図を越えた野暮は言うまい。こういう句、作ろうとしてもなかなか作れない。けっこう難しいのだろうと思う。ところで「新品」という言葉だが、昔に比べるとすっかりインパクトが弱くなってきたような気がする。使うことも、あまりなくなった。なにしろいまはどこを見回しても「新品」だらけだからであり、ことさらにそう言うべき対象が少なくなっているからである。私が子供だったころには、「新品」というだけで何かまぶしいような晴れがましいような感じがあった。着るものなどはとくにそうで、学校に「新品」の服や帽子で行こうものなら、何人もの友達から「おはつ(初)っ」と背中をどやされたものだった。それが嫌さに、帽子などはわざわざツバを折り泥土に踏んづけてまで古く見せようとしたりしてたっけ。いまでは、そんなことは起こりようもないだろう。まさに隔世の感あり、である。『埒中埒外』(2001)所収。(清水哲男)


May 0152011

 平凡といふあたたかき一日かな

                           東野佐惠子

ちろん平凡な毎日が、ただのんきで、何の気苦労もないものだなんてことはあるはずがありません。そんな人も、まれにいないことはないのでしょうが、たいていの人にとっての平凡な一日というのは、たくさんの辛いことや、みじめな思いに満たされています。それでもなんとかその日を踏みとどまって、いつもの家に帰り着き、一瞬のホッとした時間を持てるだけなのです。でも、その辛い毎日が失われた時には、ああ、あの頃はよかったなと思いだすのだから、不思議なものです。子どもがまだ小さくて、忙しく面倒を見ていた時には、幸せだなんて思う暇もなかったのに、年をとってそのころを思い出すと、ずいぶんあたたかな毎日として受け止められてきます。ということは、うじうじと思い悩んでいるこの時だって、のちに思い出せば平凡というあたたかな布に、柔らかく包みこまれていることになるのでしょうか。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2011年4月24日付)所載。(松下育男)


April 3042011

 この国の未知には触れず春惜む

                           竹下陶子

知という言葉はその時の心持ち如何で、希望にあふれているようにも不安で一杯のようにも感じられる。今、この国の未知、と読むとどうしても後者の気分が勝ちそうだが、この句が詠まれたのは、昭和五十八年。日本海中部地震があった年だが、地震が起きたのは五月二十六日なので、春惜む、より後のこと。まあいつの世でも、安心立命の境地にはなかなか至ることができない。ただ、国の先行きを憂うというより、未知という言葉に可能性を残しながら、さらにそれにはあえて触れることなく、今は春を惜しんでいる作者。このいい季節が、来年もまた巡ってくるようにと、勢いを増す緑の中で願っているのだろう。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)




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