近所では木綿豆腐を売ってない。欲しいときにはバスに乗らねば。(哲




2011ソスN5ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0752011

 真円の水平線や卯浪寄す

                           竹岡俊一

円の水平線、ということは、視界三百六十度見渡す限りひたすら海、大海原のど真ん中にいるのだろう。また真円は、水平線が描く弧から球体である地球を大きく感じさせ、卯浪は、初夏の風と共に尽きることなく船に向かって寄せている。それを乗り越え乗り越え、船はひたすら海をつっきて進んでいるのだ。この句は「六分儀(ろくぶんぎ)」と題された連作のうちの一句で、作者は海上自衛隊勤務という。六分儀は、天体の高度を計測する航海用の器械とのこと。掲出句の卯浪には、私達が陸から遙か沖に立っているのを眺めているのとは違った力強さがある。〈サングラス艦長席の摩り切れて〉〈登舷礼やや汚れたる白靴も〉サングラス、白靴、これらも同様に日常とは別の表情を見せていて興味深い。「花鳥諷詠」(2011・3月号)所載。(今井肖子)


May 0652011

 なにひとつなさで寝る夜の蛙かな

                           上村占魚

鳥諷詠というのはどこかで自己肯定に通じると強く感じることがある。自然は普遍だ。普遍のものを求めたければ、「小さな我」の世界を大きく包み込む造化に眼を遣りなさいという論法はどうも嘘臭い。小さな我を捨てるということが、類型的である我を肯定する言い訳になっていると感じるせいかもしれない。ちっぽけな我とは一体何者なのかというところをまず攻めるべきではないか。なにひとつなさないで寝てしまう我に向けられる自己の眼は、いたらない小さな自分を告白している。それは類型的自己からの覚醒といってもいい。『鮎』(1946)所収。(今井 聖)


May 0552011

 厖大なる王氏の昼寝端午の日

                           西東三鬼

午の節句は邪気を払うため菖蒲などを軒に差す、それが菖蒲と尚武の繋がりもあって男子の節句とされたと広辞苑にはある。戦後は「こどもの日」とされたようだが、私の子供時代でも3月3日のお雛様は女の子の日、鯉幟を立て、武者人形を飾る5月5日は、男の子中心の日といった気分が残っていた。男の子の祭りは祝日なのになぜ女の子の祭りは休みにならないのだろう。男の子の方が大事なんだと兄を羨ましく思ったこともあった。そんなケチな考えなどどこ吹く風と、でっぷりと太ったワン氏がいびきかいて昼寝している。戦前、戦後三鬼は神戸に住んでいたが、ロシア人、エジプト人、中国人に「センセイ」呼ばれ心に垣根を設けることなく付き合っていた。そんなコスモポリタン三鬼は鯉幟も武者人形より大きな腹をゆすって寝ている王氏に勇猛さを感じているのだろう。季重なりなど何するものぞ、意識せずに俳句の枠からはみだしてゆく三鬼の柄の大きさを王氏のいびきとともに感じさせる一句。『西東三鬼集』(1984)所収。(三宅やよい)




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