遠出は避けたい状況だが、丸山豊記念現代詩賞のため久留米まで。(哲




2011ソスN5ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1452011

 守宮出て全身をもて考へる

                           加藤楸邨

、守宮と住んでるんですよ、家族みんなで、先生って呼んでます・・・と知人が言っていたのを、この句を読んで思い出した。そういえば守宮ともしばらく会っていない。守宮は、壁に、窓に、ぺたりとはりついてじっとしている。その様子は、まさに沈思黙考、先生と呼びたくなるのもわかる。イモリの前肢の指が四本なのに対して、守宮の指は五本であることも、ヒトに引きよせて見てしまう理由だろう。守宮の顔をじっと見たことはないなと思い調べると、目が大きく口角がちょっと上がっていてかわいらしく、餌をやって飼っている人もいるらしい。ちょうど出てくる頃だな、と守宮と同居していた古い官舎をなつかしく思い出した。『鳥獣虫魚 歳時記』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


May 1352011

 朝のはじめ辛夷の空をみていたり

                           酒井弘司

であれ存在するものを書けばそれは「みていたり」ということなのだ。辛夷の空とだけいえば辛夷の空をみているということなのだ。しかし、敢えて「みていたり」といわねばならないことがある。どうしてもそういいたいときがある。この句には「長女、志乃誕生」という前書がある。どこにいて何をみていようと、そのときその瞬間を永遠の中にとどめておきたいと願うことがある。それが「みていたり」といわせる。それは辛夷の空でも土管でも野良猫でも剥がれかけた看板でもなんでもかまわない。みている作者がその瞬間にちゃんとこの世に存在しましたよという証なのだ。『現代俳句文庫・酒井弘司句集』(1997)所収。(今井 聖)


May 1252011

 筍が来てごろごろとしてゐたる

                           水田光雄

かつにも結婚するまで筍を掘ったことも、煮たこともなかった。連れ合いの里にある竹林はうかうかしていると山から下りてきた猪が鼻先で土をえぐって食い荒らしてしまうので早々に収穫して遠くの都会に住む子供たちへ送られる。掘り起こされた筍が宅急便でどかんと台所へ届けられた日には糠や唐辛子を用意し、大鍋を引っ張り出して右往左往した。それでも回数を重ねるうちにこの季節が楽しみになってきた。田舎の土をつけて筍がやってきた日には何をおいても下茹でしなければと気がせく。若竹煮、筍ごはん、木の芽和え、お吸い物。あっさりと炊いてちらし寿司に入れるのもいい。「筍が来て」と、送ってくれた人ではなく筍を主体としたことで、荷を解いて転がり出た筍たちがすぐ料理してくれ、うまく食べてくれと台所に転がってねだっているようで楽しい。『田の神』(2004)所収。(三宅やよい)




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