May 152011
語らひのいつか過去形アイスティ
鞠絵由布子
最近のテレビ番組には、芸能人が評判のお店に入って食事をするというものがずいぶんあります。気になるのは、ケーキや和菓子を食べた後での、「甘すぎなくておいしい」という誉め言葉です。甘いものが甘すぎてはいけないという感じかたは、それほど昔からあったわけではありません。いつのころからか、できるだけ薄味のものを摂取して、身体の中を薄くきれいに保つことに、努力を払う時代になっていました。本日の句に出てくるアイスティに、ガムシロップは入っていないのでしょう。「いつか」は「いつのまにか」の意味でしょうか。話をしている内に、会話の内容が自然に昔に戻ってゆく、ということは、お互いの過去を知っているということ。確かに若いころを知っている友人と、老けてしまってから知り合った友人とは、かなり意味合いが異なってきます。一緒に過去に戻ってゆける友人との会話は、それだけで充分に甘く、何杯でもおかわりできる無糖のアイスティが、似合っているようです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
May 142011
守宮出て全身をもて考へる
加藤楸邨
今、守宮と住んでるんですよ、家族みんなで、先生って呼んでます・・・と知人が言っていたのを、この句を読んで思い出した。そういえば守宮ともしばらく会っていない。守宮は、壁に、窓に、ぺたりとはりついてじっとしている。その様子は、まさに沈思黙考、先生と呼びたくなるのもわかる。イモリの前肢の指が四本なのに対して、守宮の指は五本であることも、ヒトに引きよせて見てしまう理由だろう。守宮の顔をじっと見たことはないなと思い調べると、目が大きく口角がちょっと上がっていてかわいらしく、餌をやって飼っている人もいるらしい。ちょうど出てくる頃だな、と守宮と同居していた古い官舎をなつかしく思い出した。『鳥獣虫魚 歳時記』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)
May 132011
朝のはじめ辛夷の空をみていたり
酒井弘司
何であれ存在するものを書けばそれは「みていたり」ということなのだ。辛夷の空とだけいえば辛夷の空をみているということなのだ。しかし、敢えて「みていたり」といわねばならないことがある。どうしてもそういいたいときがある。この句には「長女、志乃誕生」という前書がある。どこにいて何をみていようと、そのときその瞬間を永遠の中にとどめておきたいと願うことがある。それが「みていたり」といわせる。それは辛夷の空でも土管でも野良猫でも剥がれかけた看板でもなんでもかまわない。みている作者がその瞬間にちゃんとこの世に存在しましたよという証なのだ。『現代俳句文庫・酒井弘司句集』(1997)所収。(今井 聖)
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