こんな自販機が。日本では危険だからと設置されそうもないな。(哲




2011ソスN5ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2052011

 南国の雷雨をもつて城かくす

                           佐野まもる

リヴィアルな視点が俳句の特性のひとつであることや「詩は細部に宿る」ことにも異存はない。細部をきちんと見つめて描写している「写生句」というのもありそうでないものだ。しかし大きな景を構図の中で把握するのも難しいことであり、そこに挑戦してみるのも価値はある。見事な大きな景というのは往々にして露店で売る掛軸のようなベタな絵柄になる。この句、AをもってBをかくすという構文の中に見事に両者が配されている。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


May 1952011

 遠雷や生命保険の人が来る

                           渡辺隆夫

本邦雄に「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を賈りにくる」(「日本人霊歌」)という短歌があるが、たぶんそれを踏まえて作られているのだろう。確かに尋常に考えれば自分の命に値段をつけているわけで、保険というのはコワイしろものだ。塚本の短歌は光っているのは保険屋の汗であるが、掲句の場合は光るものは遠雷である。遠雷は遠來にひっかけてある。普通に考えれば何でもない文脈だが、読み手が塚本の短歌を思い浮かべるだろうことを想定して作られた句だと思う。作者は川柳人。もとの材料にちょいと毒や仕掛けがさりげなく盛られている。季語や故事来歴を逆手にとって詠む。「月山が死後の世界だなんて変」「亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む」なんて図を想像するとおかしくなってしまう。大真面目な俳人がおちょくられている。『魚命魚辞』(2011)所収。(三宅やよい)


May 1852011

 鶯の声もさびたり青葉山

                           仮名垣魯文

は「春告鳥」とも呼ばれるように、春になってさえずりはじめる。その美声は言うまでもない。だから、声の良い人のことを「うぐいす芸者」とも呼ぶ。さえずりはじめの頃は、まだ覚束ないところもあって妙に愛嬌があるものだけれど、時経るにしたがって錬られて美声になってくる。三年前、紫陽花の時季に鎌倉の山あいに出かけた折、複数の鶯がもったいないくらいにしきりに啼くのを聴いた。石に腰をおろして、いつまでもただ聴き惚れていたっけ。人を酔わせてくれたさすがの美声も、やがて青葉繁れる夏本番になってくると「さび(錆)」が生じてきて、次第に衰えてしまう。そうなると、夏の季語「老鶯」の登場となる。年老いた鶯という意味ではない。『年浪草』に「初春声を発し、夏に至りて止まず。しかれどもその声やや衰ふ。ゆゑにこれを老鶯といふ」とある。トシではなく声の問題である。青葉が勢いを増してくる山あいで啼く鶯の声は、対照的に衰えを隠せないといった光景である。「老いたり」ではなく「さびたり」はうまい。江戸文学から明治文学へ、その橋渡し的役割を果たした魯文の代表作は「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」。俳号は香雨亭応一と名乗った。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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