近畿まで梅雨入りなのか。そんなに急いで来てくれなくても。(哲




2011ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752011

 島を出し船にしばらく青嵐

                           片山由美子

と陸との距離が明解。その距離がしだいにひろがる。その時間が「しばらく」だ。ここには時間と距離が詰まっている。空間構成が中心に据えられていて情緒に凭れない。知をもって空間を捉える山口誓子に発した伝統が鷹羽狩行を経由して着実にこの作者に受け継がれていることがわかる。こういう方法に今の流行は抵触しない。しかし、それは俳句の伝統的な要件を踏まえた上でクールな時代的感性を生かした現代の写生である。『季語別・片山由美子句集』(2003)所収。(今井 聖)


May 2652011

 五月闇吸ひ込むチェロの勁さかな

                           朝吹英和

ェロは魅力的な楽器である。単独でのチェロの演奏を切り開いたのはパブロカザロスらしいが、古ぼけた復刻版でバッハの「無伴奏」など聴いていると心が落ち着く。チェロは弦楽器であるから、弓で弦を振動させて音を出すのだが、そのチェロの響きを「五月闇」を「吸ひ込む」と表現してチェロの太くて低い音質を感じさせる。雨を含んで暗い五月闇は否定的な印象で使われることが多いが、この句の場合その暗さをゆったりと大きく広がる魅力的なチェロの響きに転換し、しかもそれをチェロの「勁さ」と規定しているところに魅力を感じる。作者自身演奏者なのか、この句集では様々な楽器をテーマに音楽と季節との交歓を詠いあげている。「モーツァルト流れし五月雨上る」「薔薇真紅トランペットの高鳴れり」『夏の鏃』(2010)所収。(三宅やよい)


May 2552011

 幾度も寝なほす犬や五月雨

                           木下杢太郎

の俳句は「いくたびも……さつきあめ」と読みたい。「さみだれ」の「さ」は「皐月」「早苗」の「さ」とも、稲の植付けのこととも言われ、「みだれ」は「水垂(みだれ)」で「雨」のこと。梅雨どき、降りつづく雨で外歩きが思うようにできない飼犬は、そこいらにドタリとふてくされて寝そべっているしかない。そんなとき犬がよくやるように、所在なくたびたび寝相を変えているのだ。それを見おろしている飼主も、どことなく所在ない思いをしているにちがいない。ただただ降りやまない雨、ただただ寝るともなく寝ているしかない犬。いい加減あがってくれないかなあ。梅雨どきの無聊の時間が、掲句にはゆったりと流れている。杢太郎は詩人だったが、俳句も多い。阿部次郎らと連句の輪講や実作をさかんに試みたそうである。その作風は、きれいな自然の風景を描くといった傾向が強かった。他に「湯壷より鮎つる見えて日てり雨」「杯の蟲取り捨てつ庭の秋」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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