さあ、今週から心機一転、普通の(?)生活に戻ります。(哲




2011ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0562011

 梅雨深し名刺の浮かぶ神田川

                           坂本宮尾

の句の中には、気持ちをとらえて放さない言葉が3つもあります。贅沢です。季語の「梅雨」のほかに、「名刺」と「神田川」。とくに神田川と聞けば、多摩川でも隅田川でも江戸川でもなく、特別にしっとりとした抒情を感じるのは、誰もが有名なフォークソングを思い浮かべるからです。固有名詞がまとうイメージに、どこまで邪魔されずに句を詠むかという考えがある一方で、逆に、どこまでちゃっかり利用できるかを考えるのも、創作の楽しみと言えます。ただ、ここに出てくる神田川には、手ぬぐいをマフラーにして歩いている若い二人が出てくるわけではありません。川面に浮かぶ名刺から、何を想像するかは、今度は読者の楽しみとなります。リストラにあった会社の名刺なのか、昇進していらなくなった昔の肩書の名刺なのか。梅雨の雨と、さらに神田川に濡れそぼった名刺から感じられるのは、結局やるせない人生には違いありません。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


June 0462011

 金魚の尾ふはふはと今日振り返る

                           櫻井搏道

はふはしているのは、金魚の尾なのか、それを見ている自分なのか、過ぎてしまった今日一日なのか。水面には、ため息のように泡がひとつまたひとつ。水中には金魚の赤い尾ひれが漂っている。ゆらゆら、ひらひら、でなく、ふはふは。その一語がどこにかかるのか、句がどこで切れているのか、そんなことを考えるより先に、なつかしい夏の夕暮れ時をなんとなく思い出させてくれる。なんとなくといえば、この句は『鳥獣虫魚歳時記』(2000・朝日新聞社)から引いたのだが、以前も同じように別の歳時記を見ていて、同じ作者の句を選び鑑賞させていただいたことがあった。なんとなく惹かれる作家なのだと思う。(今井肖子)


June 0362011

 五十なほ待つ心あり髪洗ふ

                           大石悦子

ほと言っているのだからこれまでもずっと待っていた。五十になった今も待っている。何を待っているのかと言うと、これは異性。作者は女性だから男を待っている。髪洗ふという動作が「女」を強調していて、その強調の意図は「男」を待つということに繋がる。抽象的な理想的な男、つまり白馬の騎士を待っているのだ。女は待ち、男は行く性であると言ってしまっていいのだろうか。女はいつも白馬の騎士を待っていると重ねて断じてしまっていいのだろうか。異論のある向きもあろう。しかしこの句はそういう一般的な概念の上に乗っている。俳句とはそういう通念から離れて詠うものではないと主張しているのだ。『花神俳句館・大石悦子』(1999)所収。(今井 聖)




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