起床して気になることの第一は天気。主夫だからだろうな。(哲




2011ソスN6ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0762011

 石棺に窓なかりけり蟇

                           神野紗希

になると毎年律儀にやってくる生きものに、庭の蟇と、玄関の守宮がいる。蟇は数年前からひと回り小さい新顔が加わった。門から続く踏み石に気に入りがあるらしく、それぞれ真ん中に堂々と居座っているため、人間の方が遠慮して踏み石をよけて行き来する。掲句では、石棺のなかの闇と、そこに詰められた空気の湿り気をじゅうぶんに伝えたのち、地上に八方睨みの態で仕えるがごとき蟇の姿が、哀愁を帯びた滑稽さで浮かびあがる。それは、わが庭の踏み石までもまるで石棺の蓋のように思わせ、頑として動かぬ蟇が奇妙な把手に見えてくる。地中からひしひしと這いのぼる夏を、大きな蟇が「まだまだ」、小さな蟇も「まだまだ」と息を合わせて押しとどめているようだ。このところ「石棺」「水棺」といえば、原子炉を封じ込める建造物として頻繁に登場する。どこか荒くれた神に鎮まっていただくようなその語感に、うさん臭さを感じるのはわたしだけではないだろう。古今東西、棺は常に破られ、出てくるのは不死身の化け物なのである。「俳句」(2011年6月号)所載。(土肥あき子)


June 0662011

 草の雨葵祭と過ぎてゆき

                           清水 昶

が詩をふっつりと書かなくなり、俳句に熱中しはじめてから十数年は経っただろうか。最近はその俳句もほとんど書かなくなっていたが、ひところは自分の掲示板に「俳句航海日誌」と称して、盛んに載せていた。昶俳句の特徴はいわば唯我独尊流で、読者にわかろうがわかるまいがオカマイなしで、ひたすら昶ワールドを提出することだけに執していた。総じて道具立てがごたごたしており、およそ省略的手法とは無縁であった。そんな句のなかにあって、掲句は普通に俳句になっていて、その意味では珍しい。古風な抒情の世界でもあるけれど、かつて京都に暮らした実感がよくこめられてある。梅雨期はとくにそうだが、京都の雨はまさに「草の雨」と言うに似つかわしい。そのか細い雨が葵祭の行列が過ぎてゆくように、いつしか草の葉に露を残して去っていってしまう。その寂しいようないとおしいような作者の思いは、また読者のそれでもあるだろう。この句は2001年5月30日付の掲示板に書かれたものだ。それからぴったり十年後の当日に、昶はふっつりと世を去っていった。単なる偶然でしかないけれど、兄としてはこの偶然までもが心に沁みる。(清水哲男)


June 0562011

 梅雨深し名刺の浮かぶ神田川

                           坂本宮尾

の句の中には、気持ちをとらえて放さない言葉が3つもあります。贅沢です。季語の「梅雨」のほかに、「名刺」と「神田川」。とくに神田川と聞けば、多摩川でも隅田川でも江戸川でもなく、特別にしっとりとした抒情を感じるのは、誰もが有名なフォークソングを思い浮かべるからです。固有名詞がまとうイメージに、どこまで邪魔されずに句を詠むかという考えがある一方で、逆に、どこまでちゃっかり利用できるかを考えるのも、創作の楽しみと言えます。ただ、ここに出てくる神田川には、手ぬぐいをマフラーにして歩いている若い二人が出てくるわけではありません。川面に浮かぶ名刺から、何を想像するかは、今度は読者の楽しみとなります。リストラにあった会社の名刺なのか、昇進していらなくなった昔の肩書の名刺なのか。梅雨の雨と、さらに神田川に濡れそぼった名刺から感じられるのは、結局やるせない人生には違いありません。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)




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