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July 0172011

 石斧出て峡の青田の浮上せり

                           石井野洲子

斧が出土したというニュースが流れたとたんに、あたりの山間の青田がぐっと浮き上がって見えて来たという句。自分の住む地が古代からひらけていたという証の発見があるとその地の人は喜ぶ。観光地としての発展を喜ぶのは一部の人。多くはそういう伝統ある地に生まれ育った自分を血を受け継ぐ存在として誇りに思うのだ。北京原人の骨が出て中国が喜び、アウストラロピテクス(猿人)の骨が出てエチオピアが狂気する。伝統への誇りはどこかで正系といった意識と結びついてナショナリズムに行ったりするんだろうな。石斧出土から新しいドラマが始まるかもしれない。『月山筍』(2011)所収。(今井 聖)


July 0872011

 かたつむり掘削續く殻の奥

                           中原道夫

たつむりの殻の中で掘削が行われているとはっきり直喩にしてしまうところがこの句の特徴。手としてはもうひとつあって、例えば山の掘削音を聞かせ蝸牛の殻を出してきて、まるで殻の中で掘削が行われているかのようですねと読者に感じさせしめるという方法。後者の方が難しい。そう意図しても読者はそこまで突っ込まないかもしれないから。読者に絵解きさせるのではなくて自分で比喩のオチをきちんとつけてしまうやり方。解り易いこと。これが現代流行の一大特徴と思われる。『天鼠』(2011)所収。(今井 聖)


July 1572011

 蝉むせぶやもとより目鼻なき地蔵

                           古沢太穂

語以上の結びつきが習慣的に固定し、ある決まった意味を表すものを成句という。「広辞苑」。この説明の前半部分「習慣的に固定した二語以上の結びつき」もまた詩としては言葉の緊張の不足する要素となりえよう。まして短詩形に於いては致命的になりかねない。川流る、雪降れり、蝶舞へり。季語とて同じ。揚雲雀、緋のカンナなどはどこか最初から絵柄の類型化を志しているかのように思える。蝉につなげて、むせぶは成句を拒否する姿勢がありあり。その二語が成功しているかどうかは二の次。類型を拒否する態度からすべてが始まるのではないか。「もとより目鼻なき地蔵」も、風蝕、雨蝕がすすんで石に還りゆく仏だの消えゆく石の文字だのの定番を裏切っている。もとから目鼻など無いのだ。類型拒否というのは古い型を嫌うということ。それは詩形変革、俳句変革、ひいては自己変革への一歩だ。『捲かるる鴎』(1983)所収。(今井 聖)


July 2272011

 灯すや文字の驚く夜の秋

                           坊城俊樹

想新鮮。灯を点けたら文字が驚いた。この「や」は切れ字だが、何々するや否やの「や」でもある。作者は虚子の曾孫。作風もまた虚子正系を以って任じ「花鳥諷詠」の真骨頂を目指す。僕は俊樹作品から諧謔、洒脱、諷詠、風狂といった「俳句趣味」を感じたことがない。守旧的趣きの季語やら情緒やらを掘り起こしそれを現代の眼で洗い直してリサイクルさせようとする姿勢を感じるものである。たとえばこの一句のように。『零』(1998)所収。(今井 聖)


July 2972011

 暗き天にて許されて花火爆ず

                           三好潤子

れが誓子の「天狼」正系とも言うべき作風だ。自然の「もの」と「もの」との関係を「知」の働きで結ぶ。機智には違いないが、どこか突き放して詠うために一句の颯爽としたスタイルが強調される。言辞に粘着性がないのだ。すぐれた機智には必ず己れが乗り移る。詠う側に祈りがあるからだ。中耳結核、肝炎、両下肢血管栓塞症、脳腫瘍。生涯、難病と付き合いつづけて1985年59歳で逝く。「暗き天」も「許されて」も納得がゆく。潤子はじゅんこ、着物の似合う美しい女性であった。『曼珠沙華』(1989)所収。(今井 聖)


August 0582011

 驟雨くる病院帰りの水の味

                           寺田京子

らはどれほど勇気をもらったことだろう。子規や波郷や玄や京子に。命の消え際のぎりぎりまで「もの」を視た。視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚を総動員して「瞬間」を感じ取った。生きている時間を刻印した。あらゆる俳句の要件を味方につけて結局はそれより大切なものをゴールに蹴り込んだ。修辞的技術よりも「自分」を一行に刷り込むことを優先させた俳人だ。『雛の晴』(1983)所収。(今井 聖)


August 1282011

 吾家の燈誰か月下に見て過ぎし

                           山口誓子

者の位置はどこに在るのだろう。自分が家の中に居るとすれば、外の闇の中を過ぎる人影が視認できたとしてもその人が自分の家の中の燈を見たとまでは断定できぬであろう。自分が外に居て第三者が「吾家」の燈を見ているところを目撃したとするなら燈と通りかかった人と自分の位置関係ははっきりするが、自分が自分の家の燈を外から客観的に見ているのも変な状況である。そんなことを考えているうちにこの句は過ぎしのあとに「か」を補ってする鑑賞がいいのではないかと思い到る。吾家の燈誰か月下に見て過ぎしかというふうに。夜の道を行き交う人が、「私」の居る家の燈を見て過ぎたであろうと思っている。留まるものつまり今ここに存在する「吾」の前を過ぎていく諸人がいる。優れた句は日常を描いて寓意に到る。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


August 1982011

 見回して雲のありたる秋の晴

                           深見けん二

きどき句会で、研究会と称して「この句が無記名のまま句会に出たら、あなたは採りますか」という試みをやっている。いわゆる名句として喧伝されている句が対象だ。一度先入観を持ってしまうとなかなか作者名と作品を切り離して評価するのは大変だが、それをやってみようというわけである。自分の先入観を一度リセットしてほんとうにあなたにとってその句は魅力的な句なのか、その理由は?ということを問うていくと、鑑賞も評価も評論家やいわゆる大家などの権威に引きずられていることがわかる。この句、出席した句会に出たら僕は間違いなく採る。その理由は第一に、秋晴というのは一点の雲もなく、という本意に抗って雲のある秋晴が写生されている点。見た事実が本意を超えているのだ。第二に「見回して」に「自分」が出ている点。見回す間合いは気持の余裕と肉体の老いの所産だ。それは作者名がわかっているからそういう鑑賞が出来るのだという人がいるかもしれない。それは間違い。蓋を開けてみたらこの句が健康な青年だったという可能性はありえない。「健康な」という但し書きをつけたのは、若年であってもそういう気持の余裕と肉体の衰えを実感せざるを得ない境遇に置かれた場合は別であるという意味。「見回す」は自分と直接的に結びついた言葉である。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)


August 2682011

 河港月夜白きのれんにめしの二字

                           大野林火

港と月夜はすこし間を置いて読むのではなく、かこうづきよと一気に読むのだろう。そう考えると河港月夜というのは一個の名詞。作者の造語ということになる。枯木星というのは確か誓子の造語、ガソリンガールというのは風生だったか。目にしてみれば極めて自然に思える言葉も作者のオリジナルな工夫がほどこされているのだ。こんなところにも独自性への真摯な希求がある。こんな小さな詩形のそのまたどこか一部に、かけがえのない「私」が存在するようにという作者の願いが見えてくる。朝日文庫『高濱年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)


September 0292011

 籾殻のけぶり冷たき人のそば

                           森賀まり

ぶりは名詞煙。または動詞煙るの連用形。僕は前者のように思う。けぶりが冷たいのではない。けぶりではっきりと切る。冷たきはこころの問題ではなく体の冷えだろう。そうでないと嫌な人に添っていることになる。籾殻も冷えも季感をあらわすがそんなことは問題ではない。体が冷えてしまった人のそばにいてその人の冷えを感じている。籾殻を焼く煙が二人を包んでいる。淋しい句だがこころが熱くなる句だ。『ねむる手』(1996)所収。(今井 聖)


September 0992011

 目薬さし耳栓をして月の出待つ

                           田川飛旅子

れた抒情と乾いた抒情というふうに分類するとこういう句は後者。即物リアルと言いかえてもいい。即物リアルを狙う場合、即物の「物」自体に情緒があればそれほど乾いた抒情にならずに済む。その語が従来的に背負っているロマンを醸してくれるからだ。問題はこの句のように目薬や耳栓のような「物」が従来的なロマンを背負わない場合だ。乾いた抒情は限りなく只事に接近する。しかし、誰も手をつけなかったいちばんの「美味しい」部分はその境目ではないか。『使徒の眼』(1993)所収。(今井 聖)


September 1692011

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                           杉田久女

本健吉が『現代俳句』の中で絶賛している。曰く、「「秋冷いたる」の音調は爽やかで快く、「信濃かな」の座五も磐石のように動かない。なぜ動かないか、理屈を言っても始まらぬ。とにかく微塵揺るぎもしないこの確かさは三嘆に価する。」健吉の評価に影響されずに読んでもまさに秀吟であることに異存はないが、今ならこんな句は絶対詠えないし、詠えても果たして評価を得るだろうかという思いが湧く。時代の推移による自然環境の変化という話ではない。今でもこの風景は信濃なら一般的。問題はふたつの季語が使われている点である。梅雨期の紫陽花という季語の本意に捉われてしまうと「秋冷」は絶対使えない。仮に句会でこの句を見たら本意を離れた特殊な設定として評価のうちに入れないような気がする。思えば当時はふたつの季語など俳句では一般的であった。一句に季語はひとつとうるさく言い出したのは戦後である。無季派との論議が盛んになったために季語の持つ有効性を強調する必要に迫られたことも影響しているのかもしれないが、早く効率的に俳句の技量を上げるという技術指導が流布したことが大きいのではないか。駄句をなるべく作らないという方法は同時に奇蹟のような秀句の誕生も阻害する。一句に季語はひとつという「約束」は効率以外のなにものでもないことはこういう句を見るとわかる。最近はそれを意識してか、一句に意図的に複数の季語を入れる試みをしている俳人もいる。そういう技術の披瀝を目的のあざとさが見えるとこれも不満。技術本の罪は大きい。『現代俳句』(1964)所収。(今井 聖)


September 2392011

 デズニーに遊び小春の一と日かな

                           高浜年尾

のデズニーランドは本家本元。アメリカ、カリフォルニア州アナハイムにあり1955年に開園。年尾は1970年70歳のときにアメリカ旅行でここを訪れている。花鳥諷詠の俳人も遊園地を詠むんだな、70歳になっても遊園地に行くんだな、アメリカに行っても「小春」という季語を使うんだな、ディズニーと言わずデズニーと言ったんだな、そんなこんなも含めてこの俗調が持つ俳句の臭みにどこかやすらぎのようなものも感じる。日本の演歌やアメリカのカントリーウエスタンがどれも似たような歌詞やメロディーであることに安堵を感じるのと似ているような気がする。「一と日」も「かな」も諷詠的趣で対象とミスマッチな感があるがそこがまたなんともカワイイではないか。朝日文庫『高浜年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)


September 3092011

 月下婦長病兵をうち泣きにけり

                           秋山牧車

の句には前書がある。「戦場における看護婦の献身には感銘せり。いま一婦長大いなる荷を背負い三、四十名の病兵を引率す。『あなたはそれでも帝国軍人ですか』と叫びて」。前書は具体的だが、この句だけでも意は尽くしている。看護婦が兵を「うち」、泣く。このリアルが胸を打つ。大本営から最前線に派遣された職業軍人としての述懐である。戦後、戦争責任追及の嵐が吹き、戦中は反戦の立場であったと証しするか否かが文学者としての決定的な踏絵となった。俳人も例外ではない。戦後になって戦中に作ったという反戦の句を発表する者、戦中に作った軍人への追悼句や日本軍への応援句を句集から削除する者。負けるのはわかっていたという者、終戦の詔勅を聞いてホッとしたという者、これらはみな処世の策とみることも出来よう。勝てないまでも負けないで欲しいと願ったと振り返った俳人を知っているが、これがぎりぎり正直なところではなかったか。病兵を叱咤して打つ婦長も兵もみな被害者だという図式はわかりやすい。では加害者は誰なのか、ひとり「軍部」にその責を負わせるのか。そんな問いかけは過去のみならず。今も未曾有の「人災」の総括が問われている。『みんな俳句が好きだった』(2007)所載。(今井 聖)


October 07102011

 しどみ紅く滴りて服売りし金とどく

                           小川一灯

どみは草木瓜のこと。一灯(いっとう)は1916年生まれ。若い頃結核に罹り多年療養所で暮らし37歳で早世している。同じ頃に療養していた波郷と出会いその影響を受けた。波郷には「草木瓜や故郷のごとき療養所」がある。滴るのはしどみの紅色。なんともぎくしゃくするリズムの中に作者の切迫した真実が通う。『みんな俳句が好きだった』(2007)所載。(今井 聖)


October 14102011

 石に木に父の顔ある秋の暮

                           北 光星

に木に風に空に雲に死者の顔が映る。花鳥風月の中に死者を見る。ここまでは諷詠的情緒だ。ナイフやフォークや一枚の皿や一本のネジやボルトや切れそうな裸電球にも死んだ父は宿る。どこにでも死者の記憶のあるものや場所に死者は蘇る。死者と直接関係のない対象でもそれを見たとき言ったとき思い出せば死者は現れる。『天道』(1998)所収。(今井 聖)


October 21102011

 俯きて鳴く蟋蟀のこと思ふ

                           山口誓子

わゆる俳句的情緒を諷詠する精神に欠けているのは自分を見つめる態度がおろそかになること。悲しいだのうれしいだのきれいだの、そんな形容が俳句にタブーであることの理由はよくわかる。観念的、主観的、説明的な語句が如何に饒舌で、この短詩形に不適合であるかも納得がいく。しかし、だからといって諷詠する「私」自身への内省を怠ってはいけない。それは表現の根幹に関ることだ。蟋蟀を聞いている。鳴いている蟋蟀が俯いていると思うのは自己投影だ。こういう内省があって、そこに個人も時代も映し出される。今では技術的なオチとして、あるいはちょっとしたダンディズムのように語られる風狂だの洒脱だの飄逸だのという精神も、本来は捨身の生き方から生まれたのではなかったか。「俯きて」が俳句という詩の核心だ。『激浪』(1944)所収。(今井 聖)


October 28102011

 水鳥の月夜も道をつくりをり

                           吉田鴻司

和55年作のこの句には前書きがある。「樋本詩葉氏の絶句『ゆりかもめ山河のうねり京にいる』あり」と。いるは入るの意味だろう。樋本詩葉という名前から僕の極めて個人的な記憶が蘇った。44年に米子の高校を出て京都の予備校に入った僕は上賀茂の近くで寮生活をしていた。この頃すでに俳句を始めていた僕は上賀茂御園橋のたもとにある民家の開け放った玄関の中に見える草田男の掛け軸が気になってしかたがなかった。表札の詩葉という名前とその掛け軸から俳人のお宅だろうと推測した僕は突然無謀にも門を入って「俳句をやってらっしゃるんですか」と声を掛けた。細身の品のいいご主人が出ていらして「丸山海道先生の句会をやっていますから、いつでもどうぞ」とお誘いをいただいた。今から思うと汗顔の至りである。海道さんの句会に出た僕は講評までいただく幸運を得たが、詩葉氏宅での句会出席はその一度きりに終った。浪人という自分の立場を少しは考えたのである。その後の人生の俳句との関りの中でこの体験を時折思い出してはいた。このたび鴻司さんの句集を読んでこのお名前を見て詩葉さんがお亡くなりになられたこと。鴻司さんと交流があられたことを初めて知った。御園橋のお宅は京都市の北端にあるから「山河のうねり京にいる」の景もまさにそのまま。その絶句を踏まえた「道をつくりをり」もみごとな悼句というほかはない。そしてその道の端を僕も一時歩かせていただいたのだとつくづく思ったしだいである。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井 聖)


November 04112011

 二科展へゴムの木運びこまれをり

                           西原天気

覧会への絵の搬入搬出は多く詠まれるところ。この句は違う。どこにでもあるような、なんとなく展覧会の空間にも合うようなゴムの木が運び込まれているところが好きだ。二科展という語が秋の季語でなんとなく仕方なく季語を用いているようなところに共感する。だいたい「芸術の秋」というなんだかよくわからない理由で二科展が秋季に催されることになったか、或いは展覧会が結果的に多いから芸術の秋と呼ばれだしたか、どちらかよくわからないが、どちらにしても二科展が秋季にあらねばならない必然性は薄いことだろうにと思うのだ。作者はそんな「季語」を据えた。季節の本意を目的的に書くつもりはまったく無くても一句から季語を排除できないそんな「気弱」なところが好きだ。たとえば楸邨も草田男も誓子もその作風の方法的魅力の中に季語が重要な位置を占めているわけではないのに無季の作品はほとんどない。季語を捨てられない理由は三者三様だろうが、現実空間を描写することを是としているという点では共通しているからその点で季語が有効だという認識を持っていたことは間違いないだろう。ものを凝視するという素朴な「写生」から離れて、機智だのユーモアだの見立てだののインテリジェンスをふんだんに盛り込んでもやっぱり歳時記掲載の季節の言葉を用いるという折衷に、過渡期としての現代があるような気がする。『けむり』(2011)所収。(今井 聖)


November 11112011

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

の句すでに十年前に清水哲男さんがこの欄で鑑賞してらして、僕はその文章を読みながら当時からこの句の風景に別のことを感じたのだった。そしてそのことをどうしても言いたくなった。アラブ服が最後に出てきてタラップを降りてゆくという清水さんの鑑賞は、登場してから視界の中にずっと見えているアラブ人の動きやら服装やらが印象としてこちら側に残って存在感があり説得力がある。それとは別にもうひとつ僕が感じた風景はアラブ服が最後に旅客機の中に消える図だ。僕はハイジャックを思ったのだった。「閉す」という語感から強い意図を感じる。この句所収の句集の刊行年1972という年もそのことを思わせた。どこからどこへのハイジャックか。日本からでないかぎり「秋風」はおかしいというご意見もあろう。しかし文化大革命然り、反イスラエル、反アメリカの闘争は国際的に見て全て劣勢に立たされてきた。「秋風」がその象徴として用いられてもいいではないか。全共闘世代の末端にいた僕の世代はまたテロ多き時代に生きた世代でもあった。この句からすぐにハイジャックを思った自分に苦笑しつつ、思った自分を否定するわけにはいかない。この句には晴子さんの自解があるらしい。僕は読んでいないし読みたくもない。自解をするのは自由だが、自解にとらわれるほど馬鹿げたことはない。清水さんの鑑賞も僕の鑑賞もこの作品にとっての真実だ。『蕨手』(1972)所収。(今井 聖)


November 18112011

 焼藷の破片や体を伝ひ落つ

                           波多野爽波

〜んと唸ってこりゃすごいやと思う句は才能を感じたときだな。巧いとかよくこんな機智を考えついたなというのは大した感動じゃない。こりゃあ、ついていけん、負けたという句に出会いたいのだ。そういう意味ではこの句には僕は脱帽だ。まず破片という言葉の発想が出ない。伝ひ落つも出ないな。これが滑稽を狙った句に見える人はだめだな。焼藷→女性が好き→おならというような俗の連想でしか事象を見られないとこの句が滑稽の句になる。焼藷を食う。ぼろぼろと皮が落ちる。男でも女でも老人でも子どもでもいい。即物客観。連続する時間の中の瞬間が言い止められている。これが「写生」の真骨頂だ。「はじめより水澄んでゐし葬りかな」「大根の花や青空色足らぬ 」「大根の花まで飛んでありし下駄」爽波さんにはこんな句もあるがみんなイメージの跳び方に独自性を図ってそれを従来の型に嵌めこんだ句だ。ここには熟達した技量は感じられてもそれをもって到達できる範囲だという感じがある。この句は技術や努力では出来ません。『湯呑』(1981)所収。(今井 聖)


November 25112011

 板橋の日向に落葉籠を置く

                           島田刀根夫

橋の日向。板橋は東京都板橋区の板橋か。だとすると作者はこの地名にどういう思いを凝らしたのか。板橋が板の橋である可能性もある。波多野爽波門という視角的な描写を重視する作り方を考えればこちらの方が作者の意図かもしれない。板の橋は板橋というふうに言えるのか。竹の橋は竹橋。土の橋は土橋。石の橋は石橋か。しばらく二つのヨミを巡らせた上で後者に軍配が傾く。この行司サバキ自体が僕の嗜好を反映している。その地の風土的実体が希薄なのに言葉の効果だけを狙って地名を用いた句を僕は好まないのだ。小さな幅の流れに板の橋が渡してある。そんな短い橋にも日向と日陰があり、その日向の部分に落葉籠が置かれている。細部に目を凝らしたしずかな風景だ。アメリカの画家アンドリュー・ワイエスの絵のように。『青春』(2007)所収。(今井 聖)


December 02122011

 新大久保の大根キムチ色の空

                           夏井いつき

浜に住んでいて昔ながらの繁華街伊勢佐木町はかなり東南アジア系の店が増えていることを実感する。最初はおっかなびっくりでなんとなく敬遠していた異国料理の店もそのうちみんな抵抗なく通うようになる。新大久保もそうだ。風俗系の店が多い印象だったのが、今や人気のある韓国料理の店に行列が出来ている。大根キムチの色の空は夕方かな。白い雲に夕焼けが薄く滲んでいる。この大根が季語かどうかなどという論議は無用。そもそも日本的なるものが無国籍のはちゃめちゃな面白い情緒に姿を変える。そこでも俳句はちゃんと生きていける。そういう主張とエネルギーに満ちた句だ。俳句マガジン「いつき組」(2011年12月号)所載。(今井 聖)


December 09122011

 坑底枯野めきポンプすっとんギーすっとんギー

                           野宮猛夫

分が目にしたことのない風景が見えてくるのは作品の力だ。見たこともない炭鉱の深い坑の底の枯野のような風景。灯に照らされた茫漠たるさまが浮ぶ。そこにあるポンプはおそらく地上より酸素を送るポンプだろうと想像できる。それ以外に想像できない。命をつなぐポンプだ。どうしてすっとんがひらがなで書かれ、ギーがかたかなで書かれているのか。その意図もすぐわかる。音の質が違うのだ。すっとんとギーの音質の違いをどうしても書かねば気がすまないからこんな工夫が生まれる。どうしてその違いを書かねばならないのか。それは表現を真実に近づけたいからだ。書くってことは所詮フィクションさ、とハナから割り切るひとはすっとんとギーを分けられない。俳句は見たものを写すことではなくて言葉で創っていくものだと思っているひともすっとんとギーを分ける意図と執念は理解できない。真実に近づこうとすれば表現が真実に近づくわけでもない。しかしそこに確かな真実があって、俳句という器の中でそれにどうにかして近づこうとする作者の態度が伝わるとき読むものを打つのだ。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 16122011

 数へ日やレジ打つときの唇うごく

                           小原啄葉

じ作者に「数へ日や茶筒のうへに燐寸箱」がある。そこに見えたものを見えたように。そこに在るものを在るように。これが「写生」という方法の核心であると僕などは理解している。しかしそこに別の要件を付加する考え方がある。いわく季題の本意や俳句的情趣。レジ打つときの唇うごくを詩ならしめているのは数へ日のはたらきがあるからだという人もいるだろう。年末の慌しいスーパーマーケットの様子が背景にあるから唇がうごくのだと。そうかなあ。それこそが師走のマーケットらしさを出すわざとらしい演出というふうにこの句を解釈することにならないか。一句の内容に関してその季題が唯一絶対か否かという見方で判断するとそういう解釈になる。唇がうごくのはレジを打つ個人の集中力や個人的な癖と大きくかかわっていると思えばこの数へ日は「絶対」ではなくなる。季語が絶対ではないと判断することがこの句の価値を貶めることになるのか。僕はそうは思わない。数へ日でも悪くはないが他の季節感でもいいかもしれないと思うのは、下句の瞬間の把握が人間の普遍的な在りように触れているからだ。後者の句も同じ。『小原啄葉季題別全句集』(2011)所収。(今井 聖)


December 23122011

 いろいろの死に方思ふ冬木中

                           福田甲子雄

年大切な人を亡くした。20歳も上の人生の先達だ。彼とはよく「死」についての話をした。「父母が死ぬとこんどは自分が死顔を見られる番だという気になる」「何かを遺すなんていうけど死んでゆく側には何の関係もない」「平知盛は見るべきほどのことは見つなんて言ったけど俺には無縁の心境だな。できれば50年後の世界を見てみたい」そして彼は死んで棺に入り僕らに死顔を見せた。交通事故や病気はいつも意識して用心していればある程度避けることが出来る。死だけはそうはいかない。意識していてもしなくても必ずやってくる。死ぬんだったらどんな死に方がいいかなんて話は誰でも一度や二度はしたことがあるだろう。そういう意味ではこの句は深刻な句ではない。日常のふとした思いに過ぎない。そしてこう書いた作者もすでに故人になられたということがどこか不思議な感じがする。うまく言えないけど。『白根山麓』(1982)所収。(今井 聖)


December 30122011

 お積りの酌をしづかに年忘

                           本井 英

積りという言葉を初めて知った。酒席でその酌限りでおしまいにすることとある。忘年会で酒を飲んでいる。これでおしまいにしようと最後の盃を口に運ぶ。日本酒、日本男子、和装の風景だ。こういうのを品格とかマナーというのだろう。なんでも口に入れればいいという少年期、青年期を過ごした身には眩しい風景だ。僕の父は息子にほんとうの品格というのはバーバリズムを一度通ったところにある。英国では血みどろのバイキングを経てジェントルマンが生れたように。と薀蓄を述べたが、息子はついに野蛮な豚児のまま還暦を迎えた。酒の飲み方も箸の持ち方もコース料理のテーブルに置かれたナイフとフォークをどちらから手に取るかさえいまだにわからない。「俳句年鑑」(2012)所載。(今井 聖)




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