アメリカで「The Fourth」と言えば、今日の独立記念日のこと。(哲




2011ソスN7ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0472011

 炎天の段差に落ちてなほ歩む

                           眉村 卓

にだって、段差を踏み外した経験はあるだろう。でも、足腰の柔軟な若い頃には、踏み外してもさして気にもならない。すぐに立ち直れる。それを句では「段差に落ちて」と表現しているから、かなり足腰への衝撃があったものと読める。つまり、高齢者の実感が詠まれている。ましてや、それでなくとも暑くて歩きづらい炎天下だ。「しまった」と思ったときには、もう遅い。膝や腰に受けた衝撃でよろめき、辛うじて転倒は免れたものの、しばらくは体勢を立て直すべくその場にじっとしている羽目になる。その程度のことでは誰も手を貸してはくれないし、みんなすいすいと追い抜いてゆく。つくづく若さが羨しいのはこういうときで、作者はおそらく目ばかりカッと前方を見つめたまま、またそろりそろりと歩きはじめたのだ。こうなるともう、当人にはただ歩くことだけが自己目的となり、出かけてきた目的などは意識の外になってしまう。「なほ歩む」の五音が、そのことを雄弁に物語っている。作者はSF作家。『金子兜太の俳句塾』(2011)所載。(清水哲男)


July 0372011

 金魚玉金魚をふつと消す角度

                           辻田克巳

魚玉というのは金魚鉢のことです。ガラスの球形なのだから玉といったのでしょうが、球形は球形でも、上の方は開いていて、フリルのような形にガラスが波打っています。たいていはその波に、赤や青の線が描かれていて、子どもの頃には飽きずに中を覗き込んでいました。どうしてあんなに時間があったのだろうと、不思議になるほどに、ボーっとして金魚を見つめていました。それで何かを学んだかというと、そんなことはなく、ただ意味もなく暇をつぶしていただけなのです。おとなになって、会社勤めを始めてしまってからは、目的もなく何かをじっと見つめている時間なんて、なくなりました。ただただあわただしく、追われるように一日を過ごしています。ふっと消えてしまった大切なものは、あの頃見つめていた金魚玉の中の金魚と、あと何だったかと、考えてしまいます。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


July 0272011

 夕青田見てゐる父のやうな人

                           本宮哲郎

や山を一面の水に映していた植田から青田へ、日一日と育ってゆく苗を、朝な夕な畦に立って見るのだろう。今、夕風は青田風となって、作者の視線の先に立つ人を包んでいる。〈農継いで六十年目種を蒔く〉。作者の御尊父が亡くなられたのが昭和六十三年、この句が詠まれたのは平成十二年。句集のあとがきに「亡くなってから、むしろ父母への思いが深まり、俳句の原風景もふくらんでまいりました」とある。青田に立つ人の後ろ姿は、共に過ごした日々の記憶の断片がふと目の前に現れたようで、亡き人への思いはまた深くなるのだろう。『伊夜日子』(2006)所収。(今井肖子)




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