Nj句

July 0472011

 炎天の段差に落ちてなほ歩む

                           眉村 卓

にだって、段差を踏み外した経験はあるだろう。でも、足腰の柔軟な若い頃には、踏み外してもさして気にもならない。すぐに立ち直れる。それを句では「段差に落ちて」と表現しているから、かなり足腰への衝撃があったものと読める。つまり、高齢者の実感が詠まれている。ましてや、それでなくとも暑くて歩きづらい炎天下だ。「しまった」と思ったときには、もう遅い。膝や腰に受けた衝撃でよろめき、辛うじて転倒は免れたものの、しばらくは体勢を立て直すべくその場にじっとしている羽目になる。その程度のことでは誰も手を貸してはくれないし、みんなすいすいと追い抜いてゆく。つくづく若さが羨しいのはこういうときで、作者はおそらく目ばかりカッと前方を見つめたまま、またそろりそろりと歩きはじめたのだ。こうなるともう、当人にはただ歩くことだけが自己目的となり、出かけてきた目的などは意識の外になってしまう。「なほ歩む」の五音が、そのことを雄弁に物語っている。作者はSF作家。『金子兜太の俳句塾』(2011)所載。(清水哲男)


July 1172011

 出目金に顔近づけて聞き流す

                           陽美保子

う重要な話でもないが、いちいちうなずくのも面倒な中身だ。そんな話をしてくる人が傍らにいて、なおくどくどとつづけてくるので困っていると、折よく目の前に金魚を飼っている水槽があった。デパートなどの一角だろうか。べつに出目金など見たくはないのだけれど、「おっ」と引きつけられ感心したふりをして顔を近づけ、相手の話をやり過ごしたというのである。さすがに、この人も黙ってしまったことだろう。作者が見入ったのが出目金だったのが、なんとも可笑しい。作者自身の目も、このときの意識では出目金状態にあるからだ。日常の瑣事中の瑣事をうまくとらえた佳句である。こういうことが書けるのは、俳句だけでしょうね。『遥かなる水』(2011)所収。(清水哲男)


July 1872011

 何もなく死は夕焼に諸手つく

                           河原枇杷男

際、死には何もない。かつて物理学者の武谷三男が亡くなったとき、哲学者の黒田寛一が「同志・武谷三男は物質に還った」という書き出しの追悼文を書いた。唯物論者が死のことを「物質に還る」と言うのは普通のことだが、追悼文でそう書かれてあるのははじめて見たので、印象に残っている。そのように、死には何もないと私も思うけれども、自分が死ぬときに意識があるとすれば、何もないとすっぱり思えるかどうか、ときどき不安になることもある。句の作者は唯物論者ではなさそうで、だから西方浄土の方向に輝く夕焼けに埋没していくしかないと、死を冷静にとらえてみせているのだろう。ここには厳密に言えば、何もないのではなくて、夕焼けに抒情する心だけはある。何もないと言いながらも、やはりなおどこかに何かを求めている心があるということだ。すぱっと物質に還るとは思い切れない人の心の惑いというもののありかを、句の本意からは外れてしまうが、つよく思わされた句であった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


July 2572011

 老犬の目覚めて犬に戻りゆく

                           菊池麻美

んだ途端に、人間にも通じるなと思った。仔犬や若い犬は、寝ているときも犬そのものだ。犬としか見えない。だが老いた犬の場合には、まさか他のものと見間違うほどではないにしても、精気が感じられないので、ボロ屑のようにも思えてしまう。それが目覚めてのそりと起き上がり、動きはじめると、だんだん本来の犬としての姿に戻っていくと言うのである。この姿の移り行きは、人間の老いた姿にも共通しているようで、もはや私も他人のことは言えないけれど、多くの老人の昼寝のあとのそれと似ている気がする。実際、たとえば九十歳を過ぎたころからの父の昼寝姿を見ていたころには、あまり生きている人とは映らなかった。ボロ屑のようだとは言わないにしても、精気のない人の寝姿はいたましい。半分くらいは「物」のようにしか見えないのだ。それが起き上がってくると、徐々に人間らしくなってきて安心できた。この句、作者は犬に託して人間のさまを言いたかったのかもしれない。俳誌「鬼」(26号・2011)所載。(清水哲男)


August 0182011

 うなだれて八月がくる広島に

                           小山一人静

名を擬人化した句はめずらしいのではなかろうか。今年もまた「八月」がやってきた。うなだれて「広島」に来たのは、むろんこの月が原爆投下日を含んでいるからだ。原爆さえ落とされていなかったなら、広島の八月の表情はずいぶんと変わっていただろうに。「うなだれて」いると感じるのは、もとより作者自身の気持ちがそうだからなのだが、これを「八月」自身の気持ちとして捉えてみると、被爆という現実が個人の思いをはるかに超えたところに定着していることがわかる。否応なく、八月は被爆の無残を告げ、人間の無力感を増幅させる。もうあんなことは忘れたいのにと思っても、八月がそれを許さない。「うなだれ」ながらも、告げるべきことは告げなければと、八月は今年も巡ってきたのだ。来年からの「福島」にも「三月」は同じようにうなだれてやってくるのだろう。未来永劫、これら「八月」や「三月」が颯爽とした顔つきでやってくることはあるまい。私たち人間は、いつまで愚かでありつづけるのか。『未来図歳時記』(2009)所収。(清水哲男)


August 0882011

 西瓜喰ふ欠食児童のやうに喰ふ

                           佐山哲郎

んなふうに食べようが勝手とはいうものの、西瓜を上品にスプーンですくって食べている人を見ると、鼻白む。あれで美味しいのだろうか。句のようにかぶりついたほうが、よほど美味いと思うんだけど。ところでこの句は、現代だからこそ成立する句だと思った。そこらじゅうに「欠食児童」がいた時代だったら、洒落にもならないからだ。もはや思い出のなかにしか存在しない「欠食児童」。西瓜にかぶりつきながら、苛烈な空腹を微笑とともに追懐することができるから、句になっているのである。私も学校に弁当を持っていけない子だった。弁当の時間に何人かの「欠食児童」といっしょに校庭に出て、ただぼんやりしていた時間は忘れられない。大人になってからのクラス会で、そんなぼくらに自分の弁当をわけるべきかどうかと悩んでくれていた友人がいたことを知った。「でも、オレは分けないことにした。きみらのプライドが傷つくと思ったからね」。こう聞かされたとき、私は思わず落涙した。お前はなんて優しくて偉い奴なんだ…。傷ついていたのは、欠食児童の側だけではなかったのだと、深く得心したのだった。今日立秋。「西瓜」はなぜか秋の季語である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(清水哲男)


August 1582011

 生きてゐる負目八月十五日

                           志賀重介

戦の日に七歳の子供だった私にも、多少の負目はある。数々の空襲で死んでいった同世代の子供らのことを思うからである。ましてや作者のように既に大人になっていて生き残った人には、具体的で生々しい死者の記憶があるのだから、負目を覚えるのがむしろ当然だろう。人は必ず死ぬ。それは冷厳な真実ではあるけれど、どのような生の中断についても、生き残った人にはただ理不尽としか映らないものだ。たとえ老衰と言われ大往生と言われるような死ですらも理不尽なのであり、ましてや戦争で若い命が中断されるなどは、その最たるものであるだろう。作者が誰に負目を感じるのかは書かれていないが、それは決して太平洋戦争での日本側の死者三百万人(諸説あり)に対してではなく、具体的に友人知己だった誰かれに対してであるはずだ。三百万人の死者といえば物すごい数だけれど、当時の大人たちにしてみれば、それら三百万人よりも、親しかった一人か二人か、あるいは数人の死に激しい痛みと負目を覚えるのである。つまり、数字のみで戦争の悲惨を計ることはできないということだ。そんな日が、また今年も巡ってきた。死者はいつまでも若く、負目を負った人の若さは既に失われ、理不尽の思いだけが増殖してゆく。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 2282011

 秋が来ますよこんばんはこんばんは

                           市川 葉

京辺りでは、にわかに肌寒くなり秋めいてきました。この句とは裏腹に、何の挨拶もなくづかづかと上がりこんできた感じです。でもこれは例外と言うべきで、普段の年なら季節はそれぞれに挨拶をしながらやってきます。昼間の暑さがおさまって夜涼が感じられはじめると、私たちは秋の訪れと知るわけです。作者はそのことを、秋が「こんばんは」と挨拶しているのだとみなして、こちらからも「こんばんは」と返礼したい気分なのでしょうね。それが涼しい季節を待ちかねていた思いに良く通じていて、読者もまたほっとさせられ微笑することになります。なるほど、秋の挨拶は「こんばんは」ですか。だったら春のそれは「こんにちは」で、夏はきっと「おはよう」でしょうね。冬はどうやら無口のようですから、目礼を交わし合う程度ですませてしまうのかしらん。なかなかに愉快な発想の句で、一度読んだら忘れられなくなりそうです。『春の家』(2011)所収。(清水哲男)


August 2982011

 旋盤のこんなところに薔薇活けて

                           菖蒲あや

後まもなくの句。下町辺りの小さな町工場だろう。薄暗い作業場のなかでは旋盤がうなっており、何かの用事でそこに入った作者は、そんな場所に薔薇の花が活けられているのを見つけた。まさに「おや、こんなところに……」という驚きとともに、誰かは知らぬが花を飾った工員の優しい気持ちが思われて、瞬時幸福な気持ちになっている。この句は作者が所属した結社誌「若葉」の最初の入選句だ。ただし、師の富安風生は「こんなところに」を「かかるところに」と添削した上で掲載したのだった。ところが、作者はいかに師の添削といえども肯定しがたく、生涯「こんなところに」で押し通したというエピソードがある。ちょうどいま発売中の「俳句界」(2011年9月号)が菖蒲あやの小特集を組んでおり、そこに登場している論者三人が三人ともこの話を披露しているから、身内ではよほど有名なエピソードなのだろう。たしかに「かかるところに」としたのでは、句の骨格はしゃんとするけれど、下町らしい生活感覚が薄められてしまい、あまり面白くはない。『路地』(1967)所収。(清水哲男)


September 0592011

 うらがへる蝉に明日の天気かな

                           青山茂根

の死骸は、たいていが裏返っている。人間からすればまったくの無防備な体位に見えるが、それが自然体なのだろう。もっとも死に際しては無防備もへちまもない理屈だが、この句の蝉はまだ完全に死んではいないのかもしれない。つまり「うらがへる蝉」を「裏返りつつある蝉」と読むならば、この蝉はまだ生きていて瀕死の状態にあると解釈できるからだ。そんな状態の蝉に、作者は「明日の天気」の様子をかぶせるようにして見ている。すなわち、限りある命に限りない天気の移り行きを重ねて見ることで、そこに醸し出されてくる情景を凝視しているのである。あるときにはそれは世の無常と言われ、またあるときには自然の摂理などと言われたりもするわけだが、作者は一切そのような世俗的な感想を述べようとはしていない。命の瀬戸際など無関係に移り変わる空模様への予感を書くことで、命のはかなさではなく、落命を感傷的に捉えない視点を確立しようとしているように思える。この抒情は新しく、魅力的だ。明日、晴れるか。『BABYLON バビロン』(2011)所収。(清水哲男)


September 1292011

 空っぽの人生しかし名月です

                           榎戸満洲子

宵は仲秋の名月。名月の句は数えきれないほどあるけれど、この句はかなり異色だ。作者はべつに名月を待ちかねていたわけではないし、愛でようとしているわけでもないからである。しかも「空っぽの人生」とは言っているが、作者が自分の人生を深く掘り下げて得た結論でもなさそうで、せいぜいがその場の自虐的な感想程度にしか写らない。そう私が受け取るのは、たぶん「しかし」という接続詞が置かれているせいだろう。この「しかし」はほとんど「ともあれ、とまれ」と同義的に使われていて、前段を否定しているのではなく、それを容認する姿勢を残しつつ、後段に想いを移すという具合に機能している。つまり「人生」と「名月」とは無関係と認識しつつ、それこそ「しかし」、作者は無関係であることに感慨を抱いてしまっている。感慨無き感慨と言ってもよさそうな虚無的な匂いのする心の動きだ。こう読めば、作者の人生ばかりではなく誰の人生もまた、日月のめぐりのなかで生起しながら、やがては日月のめぐりに置き去りにされていくという思いにとらわれる。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 1992011

 湯ざましのやうに過ぎけり敬老日

                           野崎宮子

ってつけたような国民の祝日は年に何日かあるが、敬老の日もその一つだ。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という定義からして空々しい。シルバーシートなどと同じで、そこにそれがあるからそこではじめて老人を意識するなんてことは、心の付け焼き刃に過ぎない。そんな心根で「敬愛」されたって、誰がうれしいと思うだろうか。まさに味気ない「湯ざまし」を飲まされている感じなのだ。湯ざましとは、水の衛生事情が未だしだった時代の殺菌消毒するための手段であった。ただ水を沸かすということは、水の中に含まれている溶存酸素を無くしてしまうために、人体に必要なミネラルも消えてしまう。そればかりか、これを飲むと、逆に水は人体にあるミネラルなどを吸収排出してしまうので、身体には有害だという説もある。作者はそこまで意識してはいないと思うが、今日の私も湯ざましのように索漠たる思いで過ごすのだろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 2692011

 ほがらかな柿の木一本真昼かな

                           火箱ひろ

の木を見るのが好きだ。子供の頃から、周辺に柿の木が多かったからかもしれない。若葉の頃の柿の木は子供心にも美しいと感じたし、実をたわわにつけた秋の木にはとても豊饒感があって、見ているだけで幸せな気分になる。その柿の木に性格を読むとすれば、なるほど「ほがらか」がふさわしい。秋の青空を背景に立つ姿は、陽気そのものだ。いま暮らしている東京都下にも柿の木が点在していて、とくに中央線で立川を過ぎて八王子の辺りを通りかかると、古い家の庭に植えられている木が目立ってくる。自然と、心が弾んでくる。作者と同じように、しばらく学生時代に私も京都市北区で暮らしていたが、はてあのあたりに目立つ柿の木はあっただろうか。覚えていないが、もちろんこの木は京都のものでなくてもよいわけだ。「ほがらかな柿の木」が、快晴の空の下にしいんと立っている「真昼」である。句の奥のほうに、逆に人間の哀しみのようなものも滲んで見えてくる。『えんまさん』(2011)所収。(清水哲男)


October 03102011

 薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ

                           神野紗希

物の皮を剥くのは得意なほうだと思う。小学生のころに、さんざん台所仕事をさせられたせいもしれない。林檎などは、中途で一度も途切らすことなく皮を垂らして剥くことができる。と、そんなに自慢するほどのことでもないけれど、これが梨剥きとなるとけっこう難しい。林檎に比べると梨は肌理が粗いので、すぐ果肉に刃が食い込みがちだからだ。どうしても薄くなめらかとはいかずに、凹凸の部分ができてしまう。作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。「ユリイカ」(2011年10月号)所載。(清水哲男)


October 10102011

 折りかへすマラソンに散る柳かな

                           阿波野青畝

格的なフルマラソンというよりも、市民運動会などの距離の短いマラソンのようである。ランナーは懸命に走っているのだろうが、折り返し点の柳が目に入るくらいだから、どこかのんびりとした雰囲気を漂わせたマラソンだ。早くも疲れた表情の走者たちがひとり、またひとりと、間隔を開けて折り返してゆく。次の走者が到着するまで、所在なく風景に目をやっていると、柳の葉がはらりはらりと散っているのに気がついた。いまは秋たけなわの候だが、そこに散ってゆく柳を認めると、この良い季節もまもなく去っていくんだなあという感慨が湧いてくる。深読みをしておけば、マラソンに挑むほどに元気いっぱいの人の盛りの人生も、すでに亡びの様相を兆しつつあるということか……。今日は体育の日。私の住む三鷹市でも市民運動会があるので、カメラを持ってのぞきに行こうと思っている。『花の歳時記・秋』(2004・講談社)所載。(清水哲男)


October 17102011

 十月の雨のぱらつく外野席

                           西原天気

球観戦だ。他の月の野球ではなくて、「十月」のそれである。つまり、ペナントレースの順位争いもおおかた決着がつき、作者はいわゆる消化試合を観ている。ゲームは盛り上がりに欠け、観客席の人もまばら。おまけに雨までがぱらぱらと降ってきた。なんともしょんぼりとした光景だが、野球ファンにとってはこの寂しさにもまた、捨て難い味がある。1975年10月、熱狂的な巨人ファンだった私は、後楽園球場で最終戦を観た。長嶋新監督率いるジャイアンツは首位の広島に30ゲーム近くも離されて、既に球団初の最下位が決まっていた。ウイークデーにして小雨のデーゲーム、観客は3000人もいなかったと思う。いっしょに行った友人と「きょう来ているのが本当の巨人ファンだよな」と言いながらも、やはりやる気の無い選手たちの試合ぶりはつまらなかった。集まった観客の期待はみな、試合後に長嶋がなんと挨拶するのかに集まっていて、試合後のグラウンドに監督コーチ以下選手たちが一列に並んだときに、その日はじめて拍手がわいたのだった。だが期待は見事に裏切られ、長嶋は一言も発せずにぺこりとお辞儀をしただけでさっさと引き揚げてしまったのである。雨の中に取り残されたファンは一瞬ぽかんとし、次には口々に怒号をあげていた。「長嶋、出て来い、何とか言え」。あれほどに空しい観戦はなかった。この句の作者は、具体的にはどんな空しさを覚えたのだろうか。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)


October 24102011

 刃は波に波は翼に月は東に

                           中村安伸

語の『千早降る』は、町内一の物知りと言われる隠居が、百人一首の「ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」を珍解釈するという噺だ。「千早という遊女にふられた相撲取りの竜田川が……」と解釈されていくのだが、以下の今日の句の解釈も、負けず劣らずのものかもしれない。というのもどういうわけか、この句を読んだ途端に、私は国定忠次(忠治とも)が赤城の山を捨てる決意をした芝居のシーンを思い浮かべてしまったのだった。場面は忠次が「赤城の山も今宵限り……可愛い子分の手めえたちとも、別れ別れになる首途だ」と名科白を決めたあとで愛用の脇差を抜き、雁の飛ぶ空に浮かんだ月の光で、じいっと刀身に見入るという泣かせ所である。刀には焼き刃の際につく刃文という模様がある。波形が多い。したがって「刃は波に」である。そこで刀への視線を上げていくと、刀の尖の空には波形が翼に転化したような姿の雁が鳴きながら飛んでいく様子が見て取れる。つまり「波は翼に」なのであり、下句の「月は東に」は説明するまでもないだろう。「加賀の国の住人小松五郎義兼が鍛えた業物、万年溜の雪水に浄めて、俺にゃあ、生涯手めえという強い味方があったのだ」。忠治万感の思いの情景を読んだ句といったん思い込んでしまうと、他の解釈は浮かんでこなかった。「俳壇」(2011年11月号)所載。(清水哲男)


October 31102011

 菊の後大根の外更になし

                           松尾芭蕉

の季節は春の梅ではじまり、秋の菊で終わる。「菊」は「鞠」とも書き、この字は「窮」に通じていて、物事の究極、最後を意味している。つまり菊は「最後の花」というわけで、慈鎮和尚に「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」という歌がある。これを踏まえて、芭蕉は掲句を詠んだらしい。「そんなことはない。菊の花が終わった後にも、真っ白くて愛すべき大根があるではないか」と解釈できるのだが、よく考えるまでもなく、菊と大根を並べるということは、すなわち花と根とを比べていることになるので、いくらパロディとは言ってもかなりの無理がある。突飛すぎる。大根も花をつけるが、季節は春だから句にはそぐわない。誰かこのことを指摘していないかと調べてみたけれど、見当たらなかった。そこで私流の解釈をしておけば、この句は花と根を比較しているのではなくて、両者の味わいを比較したのだと思う。つまり「菊」は花を指すのではなく「味」を指している。要するに芭蕉は慈鎮和尚の歌の菊の花を「菊の味わい」と読み替えてパロディ化したわけで、この菊は「食用菊」なのだと思う。菊も美味いが、大根も負けず劣らずの美味さだよ、と。食用菊なら平安の昔からあったそうだから、理屈も通る。どうであろうか。(清水哲男)


November 07112011

 サイドカーに犬マフラーをひるがへし

                           保科次ね子

日は立冬。マフラーの季節になってきた。句は実景だろう。いや、実景でないと面白くない。服を着せられた犬が散歩している姿はさして珍しくないけれど、マフラーを巻いた犬までがいるとは驚きだ。子供の歌に、雪が降ってくると「犬はよろこび庭かけまわる」とあるから、元来犬は寒さに強いと思っていたのだが、寒がりの犬もいるのだろうか。北風の中をオートバイで走ればたしかに寒いから、サイドカーに乗せた犬の飼い主としては、人間と同じように寒かろうとマフラーを巻いてやったのだろうが、作者はそういうところを見ているのではなくて、そのマフラーを翻している姿に着目している。格好いいなあと、去ってゆくサイドカーを見送っている。私はすぐに、マフラー姿のスヌーピーがバイクを飛ばして得意になっている図を連想した。ただスヌーピーとは違って、現実のこの犬は、どんな顔をしていたのだろうか。まさか得意顔ではないだろうし、むしろ迷惑そうな顔つきだったかもしれない。だとすれば、哀れでもあり可笑しくもある。あれこれ想像できて、愉快な一句だ。『しなやかに』(2011)所収。(清水哲男)


November 14112011

 天気地気こぼれそめたる実むらさき

                           池田澄子

ややかで可憐な「実むらさき」がこぼれて落ちる季節になった。「実むらさき」は紫式部の実。この情景を感傷に流すのはたやすいし、そういう句も多いけれど、この句は別の感動に私たちを連れて行く。作者は瞬間的に「実むらさき」がいまの姿になるまでの過程に思いを致して、この姿になるまでに「天気地気」、すなわち「天と地の気」が働きかけたもろもろの力の結果であることを感じている。ちっちゃな「実むらさき」にだって、ちゃんと宇宙的な力が働いていることに、あらためて魅惑されているのだ。などと解釈すると、理屈のかった句と誤解されそうだが、それを救っているのが「こぼれそめたる」という意識的な歌謡調の言葉遣いだろう。このことによって、句の情景はあくまでも自然の姿をそのまま素朴にとどめており、なおかつ宇宙的物理的な力の存在への思いを理屈抜きに開いてくれている。新しい抒情世界への出発が告げられている句と読んだ。俳誌「豈」(52号・2011)所載。(清水哲男)


November 21112011

 冬青空毎日遠くへ行く仕事

                           興梠 隆

く晴れた冬の朝、出勤時を詠んだ句だ。いつもと同じ遠い職場に出かけてゆく。そのまんま、である。それがどうしたの、である。しかし、そこまでしか読めない読者は不幸だ。この句の力は、そのまんまの中に、一種の隠し味を秘めているところにある。「遠くへ」は単なる距離感を示しているだけではなくて、同時に時間性を持ち合わせており、それが無理なく読者に伝えられている。寒いけれども、空は晴朗だ。いつものようにその空の下に出て行くときに、作者はふっと来し方行方のことを思っている。毎日さしたる意識もせずに遠い仕事に出かけてきたこれまでの生活というもの、そしてこれからもつづいていくであろう人生の道筋。そういう時間性、歴史性が一瞬明滅して、冬空に消えてゆく感慨を、「遠くへ」の語に語らせているというわけだ。そしてここには、格別な希望もなければ悲観もない。ただそのように自分が生きていることへの確認があるだけである。こういう気持ちは、ときに誰にでも湧いてくるだろう。ただ、誰も書きとめてこなかっただけである。作者名の読みは「こうろき・たかし」。『背番号』(2011)所収。(清水哲男)


November 28112011

 初雪や父に計算尺と灯と

                           山西雅子

まどき計算尺を使う人はいないだろうから、回想の句だろう。夕暮れころから、ちらちらと白いものが舞いはじめた。初雪である。まだ幼かった作者は、雪を見て少しく興奮している。さっそく部屋で仕事をしている父に雪を告げようとしたのだけれど、彼はそのような外界の動きとは隔絶されているかのように、一心に計算尺を操っている。手元近くにまで灯火を引き寄せ、カーソルを左右に動かしながら細かい目盛りを追っている。ちょっと近寄り難い感じだ。この情景から見えてくるのは、技術畑で叩き上げられた謹厳実直な父親像であり、また真っ白い計算尺は灯影に少し色づいていて、そんな父親の胸の内を投影しているかのようにも見えている。初雪の戸外の寒さと、家の中の父親のあるかなしかの暖かみ。私の父も計算尺をよく使っていたので、この句の微妙な味は、よくわかるような気がする。「俳句」(2011年12月号)所載。(清水哲男)


December 05122011

 すぐ驚く老人が好き冬青空

                           大部哲也

持ちの良い句である。意表を突かれた。言われてみれば、なるほどと納得できる。こういう価値基準と言おうか、人の見方もあったのだ。むろん「すぐに驚く」とは一種の比喩でもあって、その他何事につけても反応がビビットであるという意味あいが込められている。見回してみると、数は少ないが、こういう老人はたしかに存在する。いつまでも子供のような好奇心を持ちつづけているからだろうが、好奇心の持続には、何か特別な秘訣でもあるのだろうか。私などはめったに驚かなくなってきているから、句の老人にちょっとジェラシーを感じてしまった。そして「冬青空」との取り合わせには、けれん味が無くて主題にふさわしい季語だと、好感が持てる。読者から言えば、こういう発想が素直に出てくる作者をもまた「好きだなあ」ということになりそうだ。『遠雷』(2011)所収。(清水哲男)


December 12122011

 老いはいや死ぬこともいや年忘れ

                           富安風生

生、七十歳の作。まるで駄々っ子みたいな句だが、七十三歳の私には、微笑とともに受け止められる。老いは、身体から来る。加齢とともに、立ち居振る舞いに支障が出てくる。「こんなはずではなかったが……」という失敗が多くなり、そのたびに「我老いたり」の実感が胸を打つ。先日の私の失敗は、居眠りをしているうちに椅子から転げ落ちてしまったことだ。一瞬、何が我が身に起きたのかがわからなかった。こんなことは、むろん若いころには起きなかった。つくづく、老いはいやだなと思い、老いを呪いたくもなったが、致し方ないと思うしかなかった。かといって、こうした失敗は死んだほうがましという意識には、なかなかつながらない。まだ軽度なのだと、自分に言い聞かせるだけだ。しかし、老人にとって確実なのは、今日よりも明日のほうが失敗する率は高まるということだ。加齢による体験が、そのことを指し示している。おそらく死ぬまで、こうしたことが繰り返され、まだまだ軽度の失敗なのだという意識のなかで、最後の時を迎えるのだろう。私の「年忘れ」もまた、作者と同じように「年(齢)忘れ」に近くなってきたようだ。ちなみに風生は、このあと二十年以上も生きて九十三歳で没している。『古稀春風』(1957)所収。(清水哲男)


December 19122011

 猟人の提げて兎の身は長し

                           望月 周

にも、この句の実感がある。子供の頃の田舎では、冬の農閑期になると、大人たちが銃を持ち猟犬を連れて山に入っていった。ターゲットは主として野兎で、夕暮れ近くになると獲物を提げた男らの姿が目撃され、だらりと垂れ下がった兎は、句にあるようにずいぶんと長く感じられたものだった。兎といえば、生きているときの丸っこいイメージが強いので、短躯と思いがちだけれど、実際は違うのである。肉はすぐに食べてしまうが、皮は干してから実用にする。納屋の壁などに長々と干されてある兎の姿は、懐かしい風物詩のように、いまでもときどき甦ってくる。そんな昔であれば、この句はちょっとした日常のなかの発見を詠んだことになるが、四十代の作者はいつごろ、どこでこんな兎を見かけたのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(清水哲男)


December 26122011

 行く年や一編集者懐かしむ

                           榊原風伯

家や評論家などの著者が、かつての担当編集者を懐かしんでいるともとれるが、この場合はそうではない。作者は私の河出書房「文芸」編集部時代の同僚だったし、河出退職後も編集者を勤めた人だから、「一編集者」とは作者自身のことだ。どんな仕事でもそうだろうが、月刊誌編集者の年末も多忙である。というよりも、普段の月とは仕事のリズムが激変するので、退職してからも年末のてんてこまいは特別に記憶に残るのである。忙しさは、しかしクリスマスを過ぎるあたりで、急ブレーキでもかかったかのように霧消してしまい、仕事納めまでの何日間かは今度はヒマを持て余すことになる。このいわば空白期に、大げさに言えば、編集者は「行く年」とともに一度死ぬのである。再び生き返るのは、年が改まってからの数日後であり、それまでのわずかな期間は編集者としてのアンテナや神経をたたんでしまう。つまり、職業人的人格を放棄するというわけだ。そんな年末の曲折のことを、作者は「過ぎ去ればすべてなつかしい日々」(永瀬清子)とでも言いたげに、ひとりぽつねんと回顧している。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)




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