O謔「句

July 0772011

 帰省地へ星降る河を渡りけり

                           花谷 清

キペディアの情報によると、7月は国土交通省が決めた河川愛護月間だそうだ。7月7日の七夕のイメージから決められのだろう。歳時記では七夕は秋の季語に入っているが、小学校や幼稚園ではこの日に短冊に願い事をかいて笹につるすのが恒例だった。今でも7月7日になると今夜は星が見えるかな、と天気が気になる。掲句の「星降る河」にはゴッホの絵のように満天の星灯りが川面に突き刺さっているかもしれない。その河を渡りきったら懐かしい故郷の土地だ。故郷の家では草取りや家の修理だの、といった雑用が待っていてゆっくりできないかもしれないが、帰省地へ着く直前の待ち遠しいような、懐かしいような気持ちはよくわかる。あの道、あの橋を渡ってもうすぐ家にたどり着く。その心持ちは一年に一度の逢瀬と似ている気がする。『森は聖堂』(2011)所収。(三宅やよい)


July 1472011

 ともだちの流れてこないプールかな

                           宮本佳世乃

型のレジャープールにはウォータースライダーがあったり、波の打ち寄せるプールがあったり、流れるプールが中州をぐるりと取り巻いていたりする。流れる方向は一定で、ビニールボートや浮き輪につかまって流れていると自分で泳がないでもくるくる回り続けることができる。流れにとどまって待っているのに後ろからくるはずの友達が「流れてこない」。その表現に少し不吉でかすかな死の匂いが感じられるのは水の流れと「彼岸」が結びつくからか。まぶしい夏の日差しと人々の歓声に取り巻かれつつ友達を待つ時間が長く感じられる。きっと友達は「ごめん、ごめん」と言いながら全然違う方向から歩いてきて、その瞬間に不安な気持ちも消えてしまうだろう。そんなささいな出来事も俳句の言葉に書き留めると、自分にも覚えのある時間が蘇り、ことさらに意味を持って思い出されたりするのだ。『きざし』(2010)所載。(三宅やよい)


July 2172011

 蟻蟻蟻蟻の連鎖を恐れ蟻

                           米岡隆文

ンクリートに囲まれたマンション暮らしをしているとめったに蟻を見かけない。子供の頃は庭の片隅に座り込んで大きな黒蟻を指でつまんだり、薄く撒いた砂糖に群がる蟻たちの様子をじっと見つめていた。あの頃地面を這いまわっていた蟻はとても大きく感じたけど、今はしゃがみ込んで見つめることもなく蟻の存在すら忘れてしまう日常だ。蟻の句と言えば「ひとの目の中の  蟻蟻蟻蟻蟻」(富沢赤黄男)が思い浮かぶが、この込み入った字面の連続する表記が群がる蟻のごちゃごちゃした様子を表しているようだ。掲句の蟻は巣穴まで一列に行進する蟻から少し離れてぽつねんといるのだろう。その空白に集団に連なる自分の不安感を投影しているように思える。『隆』(2011)所収。(三宅やよい)


July 2872011

 ことごとく髪に根のある旱かな

                           奥坂まや

かに髪にはことごとく毛根がある。しかし日常モードで使われる毛根は「毛根にチカラ」とか「毛根を強くする」なんてヘアケア用語のレベルにとどまっているように思える。それが、「髪に根のある」とことさらの表現に「旱」が続くと、水のない白く乾ききった大地にしぶとい根を張る植物のイメージと毛根が重なり合う。それとともに、ことごとく根のある黒髪をみっしりと頭にいただく鬱陶しさと、物を涸れつくす「旱」の白く乾いた眩しさが思われる。相反する要素が暑さという共通項で繋がり「かな」という切れでくっきりと印象づけられる。こうした句を読むと、なだらかに読みくだす十七音に置かれた言葉の配列の妙を感じずにはいられない。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)


August 0482011

 被爆者の満ち満ちし川納涼舟

                           関根誠子

民喜の「永遠のみどり」の一節に「ヒロシマのデルタに/若葉うづまけ/死と焔の記憶に/よき祈りよ こもれ」とあるように大田川の下流のデルタ地域に広島市はある。四本に分流した川はそのまま瀬戸内海へ注ぎ込む。原爆投下の直後、火に包まれた街から水を求めて多くの人達が川に集まったことだろう。八月六日の夜には原爆で亡くなった人たちの名前を書いた無数の灯籠が流される。その同じ川に時を隔てて納涼舟が浮かんでいる。川の姿はちっとも変っていないが、時間の隔たりを凝縮して思えばその二つの図柄の重なりが「ヒロシマ」を主題とした一つの絵巻物のように思える。「死者生者涼めとここに沙羅一樹」村越化石の「沙羅」のように川は人間世界の時間を越えてとうとうと流れ続ける。『浮力』(2011)所収。(三宅やよい)


August 1182011

 口開けて金魚のやうな浴衣の子

                           三吉みどり

んて可愛いい句だろう。盆踊り、夜店、夏祭り、子供たちにとって夏は特別な季節。ただでさえウキウキするのに糊の効いた浴衣を着せてもらってますます楽しみごとに期待が膨らむ。親に連れられた小さな子供が櫓の太鼓に見とれているのか、夜店の賑わいに心を奪われているのか。半開きの口元に何かに夢中になっている気持ちが表れている。水面に浮きあがってくる金魚のよう。浴衣にしめる赤やピンクのふわふわの兵児帯がゆらゆら揺れる金魚の尾鰭に思える。「やうな」という直喩は異質な物と物とに通路を開く働きをする。これから金魚を見れば口を開けて見上げる浴衣の子を思い、浴衣の子を見れば水槽に浮かびあがってくる金魚を想像するかもしれない。『花の雨』(2011)所収。(三宅やよい)


August 1882011

 へちまぞなもし夜濯の頭に触れて

                           西野文代

のカーテンと称して、陽のあたるベランダにゴーヤの葉を茂らせる今年の流行にのって、うちも育ててみた。どうにかいくつかぶらぶらと実を結び、毎日大きくなるのを楽しみにしていた。日除けと言えば糸瓜の棚もその一種だろう。「糸瓜」と聞けば子規を連想するが、「へちまぞなもし」は松山言葉。夜濯のものを干した頭に棚の糸瓜がごつんとあたる。「あいた」と言う代わりにこんなユーモラスな言葉が口をついて出てくれば上等だ。へちまがぼそっと呟いていると考えても面白い。野菜や果物を毎日大切に育てていると彼らの声が聞こえるという話を聞いたことがあるが、ゴーヤの声が響いてこない私はまだまだってことだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


August 2582011

 朽ち果てしその蜩の寺を継ぐ

                           佐山哲郎

がカトリックだった私は寺にはまったく縁がない。それ以上に生まれ育った神戸という街そのものに寺が少なかったように思う。そのせいか、東京の谷中から上野、浅草あたりを歩いたとき、その寺の多さに驚いた。それぞれの寺には卒塔婆の乱立する古い墓地があり、寺を継ぐというのは何基あるかわからない墓の管理とその檀家の法事の一切を引き受けることと思えば気が遠くなる。考えれば武田泰淳から永六輔、植木等まで寺の息子というのはけっこう多いようだ。「朽ち果てし」という上五と蜩の声はぴったりの侘び具合であるが、「その日暮らし」という語も仕掛けられているのは言うまでもない。題名そのものも人を食った味わいがあるが、少しうらぶれた下町の情緒と、洒落のめしたナンセンスが混然一体となった句集である。『娑婆娑婆』(2011)所収。(三宅やよい)


September 0192011

 遺児めきぬ二百十日の靴の紐

                           木村和也

日は九月一日。1923年午前11時58分、関東大震災の起こった日でもある。立春から数えて二百十日目のこのあたりは稲の開花時期でもあるが、台風がよく襲来することもあって昔から厄日とされていたという。この日が防災の日と定められたのは1960年から、今日は小学校、中学校の始業式に合わせて各地で防災訓練が行われることだろう。ところで掲句の靴の紐は、しっかりと靴に装着された靴紐ではなくて、予備として靴箱に置かれたものだろう。もしかすると本体の靴はとっくに処分されているかもしれない。残った靴紐を「遺児めく」と大げさに捉えた見方が意表を突く。大きな余震が続く東京では、次は関東大震災にまさる大地震が来るのではと不安に思っている人も多い。私が勤務している職場でも防災訓練が行われるが、今年は力の入ったものになりそうだ。まずは靴紐をしっかり結ばなければ。『新鬼』(2009)所収。(三宅やよい)


September 0892011

 戀の數ほど新米を零しけり

                           島田牙城

米は美しい、新米はぬくい、新米は水気たっぷりで、一粒一粒が光っている。田舎で採れた新米を汲みあげたばかりの井戸の水で炊くとどうしてこんなにうまいのだろう。炊きあがったご飯をしみじみ噛みしめたものだ。今年も新米の出回る時期になった。原発事故の起こった今年、米作農家は祈るような気持ちで米を育ててきたことだろう。掌に掬いあげた新米がきらきら指のあいだから零れてゆく。初恋をはじめとして実らなかった恋愛の数々のように。ちょっと気取った表現が「そんなにたくさん恋愛したの?」と思わず突っ込みを入れたくなるユーモラスな味わいを滲ませている。恋と新米の取り合わせが新鮮。『誤植』(2011)所収。(三宅やよい)


September 1592011

 胃は此処に月は東京タワーの横

                           池田澄子

んだ空に煌々と月が光っている。ライトアップされた東京タワーの横にくっきりと見える満月は美しかろう。ただ、この句は景色がメインではない。胃が存在感を持って意識されるのは、胸やけを感じたり、食べ過ぎで胃が重かったりと、胃が不調の時。もやもやの気分で、ふっと見上げた視線の先に東京タワーと月が並んでいる、あらっ面白いわね。その瞬間の心のはずみが句に感じられる。どんより重い胃とすっきり輝く月の対比を効かせつつ、今、ここに在る自分の立ち位置からさらりと俳句に仕立てるのはこの作者ならではの技。ただその時の気持ちを対象にからませて述懐すれば句になるわけではない。この句では「胃は此処に」に対して「月は東京タワーの横(に)」の対句の構成に「横」の体言止めですぱっと切れを入れて俳句に仕立てている。短い俳句で自分の文体を作り出すのは至難の業ではあるが、どの句にも「イケダスミコ」と署名の入った独特の味わいが感じられる。「今年また生きて残暑を嘆き合う」「よし分かった君はつくつく法師である」『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)


September 2292011

 勉強の灯かと見て過ぐ秋黴雨

                           原 雅子

走台風の影響か、ここ数日雨が続いている。「秋黴雨」は「あきついり」曇りがちで小雨がじとじと降る梅雨のような長雨を言うが、俳句以外ではあまり出会わない言葉かもしれない。秋めいてくると夕暮れが短くなるが、雨の降る日はいっそう暗くなるのが早い。近所の家の一隅に電気がついている。そういえば元気よく外で遊んでいたあの子も受験の頃、早々と灯された部屋に思いをはせているのだろう。煌々と照らした塾に通うのが今風かもしれないが、昔は試験勉強や受験勉強は、孤独な作業だった。眠たい目をこすりながらいつまでも消えない同級生の勉強部屋の窓の灯が気になって仕方がなかった。遠い歳月の彼方に自分も点した「勉強の灯」。ちらっと見やった眼差しに暖かさが感じられる。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)


September 2992011

 片仮名でススキと書けばイタチ来て

                           金原まさ子

ーん。不思議な句だ。芒、薄、すすき、金色に吹かれるその姿を表す表記はいろいろ選べる。ススキと書くとどうしてイタチが来るのか。だいたい「どうして」って意味を問うこと自体野暮なのだろう。この句と出会って思い出すたび気になり、ずっと心の片隅に引っかかっている。確かに裾の開いた片仮名でススキと書いてみると、その隙間をつややかな尾を光らせてつつつつとイタチが走り抜けてゆきそうな気がする。「ススキと書けばイタチ来て」、のリズムも音の流れもステキだ。未だによい解釈は思い浮かばないけど、街で「スズキ」自動車の看板を見てもはっとしてしまう。きっと私はこの句をずっと忘れないだろう。どうしても解けない謎は謎のまま、まるごと愛し続けることが作者が感じた不思議と共鳴する唯一の方法かもしれない。『遊戯の家』(2010)所収。(三宅やよい)


October 06102011

 本棚に本の抜け穴十三夜

                           火箱ひろ

うやって鑑賞を書いている最中に「えっと、確かあの本に載ってたっけ」ごそごそと本棚を探すときがある。確かこのあたりにあるはずとあたりをつけてもブツは出てこない。探していると見つからず、忘れた頃にひょこっと現れる。そんな時、忘れっぽい自分は棚にあげて「本棚には本の抜け穴があって、どこかに行っているのだろう。」と掲句のように考えると気も楽になる。そういえば歌人の高瀬一誌に「あそび呆けていた鋏は十日間かけて帰ってくるもの」という短歌があって、読んで以来すぐ指定の置き場所からなくなる鋏もやっきになって探さなくなった。煌々と月の輝く十三夜、本棚を抜け出した本が集まってのんびりお月見をしているかもしれない。『えんまさん』(2011)所収。(三宅やよい)


October 13102011

 天高しほがらほがらの伊勢うどん

                           奥坂まや

らっとした秋晴れが何日か続いている。暑くもなく、寒くもなく公園に寝転んで透き通った空を見上げるのにいい頃合だ。そんな気持ちのいい秋の天気と取り合わされている「伊勢うどん」とはこれ如何に。ウィキペディアの説明によると、「黒く濃厚なつゆを柔らかく煮た極太の麺にからめて食べる。麺をゆでる時間が非常に長く、通常のうどんが15分程度であるのに対して1時間弱ほど茹でる」そうで、伊勢参りの人のために提供されたのが始まりとか。きっとおおらかで素朴なうどんなのだろう。参道の店で伊勢うどんを食べると長旅の疲れも癒えて「ほがらほがら」と機嫌がよくなるのだろう。広々と澄みわたった空にほがらかに唄ううどんが「伊勢へおいでよ」と呼んでいる気がする。『妣の国』(2011)所収。(三宅やよい)


October 20102011

 凶作や日に六本のバスダイヤ

                           小豆澤裕子

作というと太宰治の『津軽』を思い出す。郷土史家の友人を訪ねて津軽地域の年表を広げるシーンで、三百三十年間の米の出来具合の記録が転載されており、四ページにわたって凶・中凶・大凶の文字が連なる悲惨に息をのんだ。凶作の年には草の根を食べ、間引きし、娘を売り払いながら土地を守ってきたのだろう。「凶作」という言葉には辛酸な歴史が畳みこまれている。今年の米の実りはよくとも、原発事故の影響もあり東北地方の農家は凶作の年と同じように心細い思いをしているのではないか。ところで掲句の場所はどのあたりだろう。1日にバスが6本しかなく、夕方になると早々と運行が終ってしまう、過疎化した土地での暮らしが思われる。そうした場所で凶作とはどれだけしんどいことか。作者は通りがかりの旅人の視線からそこに暮らす人々の暮らしへ思いをはせて空白の多いバスの時刻表を、停留所の背後に広がる田畑を見つめている。『右目』(2010)所収。(三宅やよい)


October 27102011

 手に持ちて葡萄は雨の重さかな

                           北川あい沙

緑のマスカット、紫のデラウェイ、深い藍色のピオ―ネ、青紫のベリーA、様々な種類の葡萄が店先に並んでいる。葡萄はたとえ国内産であっても、遠いところからやってきた異国の果物という感じがする。口に含んでつるりと冷たい実が舌に滑り落ちる。大きな雨粒があれば葡萄のように優しい味がするだろうか。雨に重さがあるとするなら、明るくて軽い春雨は赤いイチゴ。しとしと冷たい秋雨は少し持ち重りする紫の葡萄。というところだろう。見えない雨の重さを身近な果物に仮託することで、しとしと降り続ける陰気な雨も好ましく思われる。今日は朝から雨が降っているけど、このような句と出会うとどんよりした気持ちが明るくなる。『風鈴』(2011)所収。(三宅やよい)


November 03112011

 助手席の犬が舌出す文化の日

                           大木あまり

号待ちをしている車の窓から顔を出している犬と眼が合う。小さな室内犬は飼い主の膝に抱かれてきょろきょろしているが、大型犬などはわがもの顔で助手席にすわり、真面目な顔で外を眺めている。流れゆく景色を眺めながら犬は何を思っているのだろう。車の中が暑いのか、楽しいものを見つけたのか、犬が舌を出してハ―ハ―している。しかし下五に「文化の日」と続くと、批評性が加わり「文化だって、へー、ちゃんちゃらおかしいや」と犬がべろり舌を出して笑っているように思える。しかし助手席に座る犬を「お犬さま」に仕立てているのは人間達の一方的な可愛がりの結果。犬が欲求したわけでもない。ホントのところ犬は人間並みの扱いに閉口しているかもしれない。と、ソファに眠る我が犬を眺める文化の日である『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)


November 10112011

 立冬のきのこ会議の白熱す

                           中谷仁美

冬をさかいに朝晩冷え込むようになってきた。この季節、椎茸、舞茸、シメジなど鍋に入れるきのこがとりわけおいしく感じられる。きのこ会議とは、林の中のきのこの正体をめぐって繰り広げられる議論なのか。ひょっとすると居酒屋のメニューを前にきのこをめぐってたわいもない話しが盛り上がっているだけかもしれぬ。人間主体でなくとも、ひとの踏み込まぬ林の奥で、栗茸や楢茸や舞茸が、ああ、もう本格的な冬が近い。この世から消えてしまう前に来年の場所取りに決着をつけなければと、熱心に会議している童話的世界を想像しても楽しい。実り多き秋、紅葉の秋が過ぎると山もめっきり寂しくなる。今のうちに多種多様なきのこを楽しむことにしよう。『どすこい』(2008)所収。(三宅やよい)


November 17112011

 三代の女系家族が菊燃やす

                           蔵前幸子

系は女の系統、母方の血統と辞書にある。卷族の男性の影が薄く女中心に物事が決定される家なども女系家族と呼ばれることもあるようだ。掲句のシーンは祖母、母、娘がぐるりと火を囲んで枯菊を燃やしているのだろう。ただ、枯れた菊ではなく単に菊を燃やすと書かれているので、乱れ咲いている菊をそのままくべているようで生々しい。菊は延命長寿、邪気払いの薬効のある花でその菊を燃やす様子がまじないをしているようで怖い。これが祖父、父、息子の組み合わせだとまた様子が変わってくるだろう。三代は三人にも通じ、マクベスの魔女も思わせて、枯れ菊を焚く光景が怪しい雰囲気を醸し出している。『さっちゃん』(2009)所収。(三宅やよい)


November 24112011

 寝釈迦には星の毛布が似合ひけり

                           津山 類

釈迦といえば『ビルマの竪琴』を思い出す。僧になった水島上等兵の奏でる「埴生の宿」を耳にした日本兵が、巨大な寝釈迦のまわりを探しまわるシーンだ。千葉県館山で同じような寝釈迦を見た。座っている仏様を見なれた目には寝釈迦はゆったりくつろいでいるように見える。冒頭の映画のシーンでは水島上等兵は釈迦の腹の中に隠れていたが、その寝釈迦にも背中あたりに小さな戸があり、出入りできる様だった。うっそうとした森に囲まれ横になる仏様にとって夏は涼しくていいが、冬だとさぞ寒かろう。掲句のように満天の冬星が寝釈迦の毛布だと思えば冬枯れた景色も暖かく思える。「葛城の山懐に寝釈迦かな」の 阿波野青畝の句の寝釈迦は山懐に包まれている安らぎがあるが、この句の寝釈迦は冬空に合わせてサイズが大きく伸びてゆくようである。『秘すれば花』(2009)所収。(三宅やよい)


December 01122011

 冬を明るく弁当の蓋開けて

                           興梠 隆

弁でも家で作ってもらったお弁当でも、何が入っているんだろう、期待を持って蓋を開ける瞬間は楽しい。私事になるが、むかし家の事情で、おそまつな弁当しか持っていけない時期があり、友達の前で弁当の蓋をとるのが嫌だった。友人たちは母親の心づくしの彩り鮮やかなおかずに加え小さなタッパ―に食後のフル―ツまで持参しているのに、私のお弁当ときたら目刺だの煮しめた大根だの佃煮だの、やたら茶色っぽいものだったから。と、言ってもそんな弁当格差は人と比べるから出てくるわけで、地味なお弁当であってもお昼休みに「さぁ、食べよう」と、蓋を開ける心のはずみは失われることはない。掲句では弁当を開けるささやかな行為と喜びが「冬を明るく」と空間的広がりに結び付いてゆくのが素晴らしい。倒置の効果が十分に生かされた一句である。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


December 08122011

 銀河系柚子にはもはやもどれまい

                           糸 大八

数の星をまたたかせる冬の夜空に柚子の実がランプのように点っている。この句、銀河系(が)柚子にはもはや戻れないと、読んだ。銀河系は常に生成と消滅を繰り返し、一日とて同じ姿はない、もともとは柚子であったのに銀河系になってしまった。ということだろうか。または銀河系柚子の存在そのものが銀河系から切り離されて別物になってしまったとも読める。その場合は銀河系柚子から変質してしまった物に自己投影していると考えられる。銀河系のうち一番近いと思われる火星ですら行くだけで一年近くかかるらしい。日本の隅っこに生息する私には計り知れない時間と空間が広がる宇宙の大きさであるが、厖大な銀河系と掌にのる柚子との関係づけが面白い。柚子湯、ゆずみそ、冬の生活に欠かせない柚子。その明るい黄色とすっぱさ、凝縮された香気が銀河系に広がる。さもありなんと思える。『白桃』(2011)所収。(三宅やよい)


December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


December 22122011

 夫婦とも違ふ鮟鱇鍋囲む

                           山崎十生

鱇鍋で有名な茨城も今回は震災の影響もあってもう一つ客の入りが悪いようだ。鮟鱇の吊るし切りなど冬の風物詩だろうが、濃厚な味の鍋もこの季節ならではのものだ。「夫婦とも違ふ」と切って夫婦ではない男女二人が親密に鮟鱇鍋をつつき合っていると読むのか、夫婦のそれぞれが違う場所で、別の人と「違ふ鮟鱇鍋」に向き合っているのか読み方が分かれるところだろう。後者の場合、共働き夫婦それぞれの忘年会とも考えられるが、この句集の題名『恋句』を考えると妻、夫それぞれに恋人がいて違う鮟鱇鍋を囲んでいると捉えたい。いずれにしても鮟鱇鍋と男女の関係が怪しい雰囲気を醸し出している。もう若くはなく或る程度人生の荒波をかいくぐった二人だろう、とそう思わせるのは身の部分だけでなく、皮も胆も食べつくすこの鍋の性格があるからだろうか。『恋句』(2011)所収。(三宅やよい)


December 29122011

 悲しみはつながっているカーブする

                           徳永政二

011年も終わりに近づいている。自分が生きてきた中で今年は今までと違う一年だったと思う。3月11日の東日本大震災の津波と原発事故。私は現地へ行ったわけでもなく、被災した人たちから直接話を聞いたわけでもないが、深く心に突き刺さった出来事だった。いや「だった」と過去形ではなくそれは今も続いている。一度起こったことは片付くなんてことはない、それは形を変えていつまでも続くのだ、と言ったのは夏目漱石の『道草』の主人公だったと思うが、そうした現実から滲みだしてくる悲しみが人の心を伝わって双曲線を描きながら自分に帰ってくる。それが言葉になって表現できるようになるのはいつだろうか。川柳は俳句にはない直接性があり、時折ダイレクトな言葉の手ごたえを感じたいときには川柳を読む。いかようにも読める句かもしれないが、わたしには今年を終るにあたって一番心に響く句であった。この句が収録されている句集は沢山の写真と組み合わされて構成されているが、この句に添えられた写真もいい。灰色の空に突き出た太い帆先に一人たたずむ男が遥か遠方を見ている、その孤独な姿がこの句と実によく響き合っている。『カーブ』(2011)所収。(三宅やよい)




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