熱帯夜がつづきます。冷房を入れずにふうふう言ってます。(哲




2011ソスN7ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1472011

 ともだちの流れてこないプールかな

                           宮本佳世乃

型のレジャープールにはウォータースライダーがあったり、波の打ち寄せるプールがあったり、流れるプールが中州をぐるりと取り巻いていたりする。流れる方向は一定で、ビニールボートや浮き輪につかまって流れていると自分で泳がないでもくるくる回り続けることができる。流れにとどまって待っているのに後ろからくるはずの友達が「流れてこない」。その表現に少し不吉でかすかな死の匂いが感じられるのは水の流れと「彼岸」が結びつくからか。まぶしい夏の日差しと人々の歓声に取り巻かれつつ友達を待つ時間が長く感じられる。きっと友達は「ごめん、ごめん」と言いながら全然違う方向から歩いてきて、その瞬間に不安な気持ちも消えてしまうだろう。そんなささいな出来事も俳句の言葉に書き留めると、自分にも覚えのある時間が蘇り、ことさらに意味を持って思い出されたりするのだ。『きざし』(2010)所載。(三宅やよい)


July 1372011

 夕焼の樹々まっくろく蝉鳴けり

                           高垣憲正

あかと西空をみごとに染めあげている夕焼を遠景にして、今日を限り(?)と蝉が激しく鳴いている。燃えるように広がる夕焼の赤に対して、「まっくろ」を対置した大胆さには舌を巻かざるを得ない。実際に蝉の鳴く声が黒いわけではない。蝉が樹に蝟集しているのであろう。そのびっしり寄り集まっている様子から、鳴き声までも黒々と感受されていて穏やかではない。「黒々」ではなく「まっくろ」という衝撃。私は十数年前に広島の真昼の公園で、樹の幹に蝉がまっくろに蝟集して鳴いている場面に出くわしたことがある。あの時の無気味な光景は今も忘れることができない。いちばん早く鳴きはじめる松蝉(春蝉)にはじまって、にいにい蝉、あぶら蝉、くま蝉……とつづく。雌の蝉は鳴かないから唖蝉。高橋睦郎が直近で「雌(め)の黙(もだ)のひたと雄蝉の歌立たす」他蝉十句を発表している。(「澤」7月号)詩人である憲正は句集のあとがきで「若い日の俳句の勉強が、ぼくの現在の詩の手法に、決定的な影響を及ぼしていることにも、あらためて驚かされる」と記している。過半の句が高校生のころのものだが、いずれもシャープである。他に「蟹あまたおのが穴もち夏天もつ」など。『靴の紐』(1976)所収。(八木忠栄)


July 1272011

 ボート漕ぐ翼のごとく腕を張り

                           松永浮堂

を張り、肩甲骨を引き寄せるボートを漕ぐ動作と、鳥の羽ばたきの動きは確かに酷似している。ことにレガッタなど数人が連なるボート競技を見ていると、腕とオールが翼と化して、水面を羽ばたいているように見えてくる。長い翼の中心に据えられた背中が、ことに鳥のそれを思わせるのだ。以前、デイヴィッド・アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』という書籍をジャケ買い(カバーの印象が気に入って買ってしまうこと)したことがある。残念ながら内容は生物図鑑とはまるきり関係なく、感動的な小説だったが、なにより翼のなごりが自分の身体にもあるのだということが、心を広々と解放させてくれた。とはいえ、体重10kgほどの大白鳥でさえ、両翼を開いた状態で2mを越える。人間が飛べる翼とはどれほどのものだろうと調べてみると、なんと片翼だけで17mが必要になるという。邪魔か。『遊水』(2011)所収。(土肥あき子)




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