盆送り火。東京はおおむね新暦で行うが、盆踊りは何故か月遅れ。(哲




2011ソスN7ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1672011

 子等の声単音となる日の盛

                           長嶺千晶

れを書いている今、まさに日の盛。午前中はマグリットぽい雲がたくさん浮かんでいたのだけれど、今は雲ひとつなく太陽が照りつけている。おそるおそるベランダに出てみたが人通りも風もわずか、自分のため息の音がするばかりだ。掲出句の、単音、という言葉、聞いたことがあるような無いような。辞書を引くと、「(略)連続的な音声を個々に区切られる諸部分に分解して得られる最小の単位。汗(あせ)は〔a〕〔s〕〔e〕の単音からなる。」(大辞林)とある。なるほど、校庭に公園に元気に響いている子供の声が、炎天下ふっと遠ざかってゆくような、とぎれとぎれになるような気がすることがある、あの感じか。歓声がぱらぱらのアルファベットになって溶けてしまいそうな暑さだ。『夏館』(2003)所収。(今井肖子)


July 1572011

 蝉むせぶやもとより目鼻なき地蔵

                           古沢太穂

語以上の結びつきが習慣的に固定し、ある決まった意味を表すものを成句という。「広辞苑」。この説明の前半部分「習慣的に固定した二語以上の結びつき」もまた詩としては言葉の緊張の不足する要素となりえよう。まして短詩形に於いては致命的になりかねない。川流る、雪降れり、蝶舞へり。季語とて同じ。揚雲雀、緋のカンナなどはどこか最初から絵柄の類型化を志しているかのように思える。蝉につなげて、むせぶは成句を拒否する姿勢がありあり。その二語が成功しているかどうかは二の次。類型を拒否する態度からすべてが始まるのではないか。「もとより目鼻なき地蔵」も、風蝕、雨蝕がすすんで石に還りゆく仏だの消えゆく石の文字だのの定番を裏切っている。もとから目鼻など無いのだ。類型拒否というのは古い型を嫌うということ。それは詩形変革、俳句変革、ひいては自己変革への一歩だ。『捲かるる鴎』(1983)所収。(今井 聖)


July 1472011

 ともだちの流れてこないプールかな

                           宮本佳世乃

型のレジャープールにはウォータースライダーがあったり、波の打ち寄せるプールがあったり、流れるプールが中州をぐるりと取り巻いていたりする。流れる方向は一定で、ビニールボートや浮き輪につかまって流れていると自分で泳がないでもくるくる回り続けることができる。流れにとどまって待っているのに後ろからくるはずの友達が「流れてこない」。その表現に少し不吉でかすかな死の匂いが感じられるのは水の流れと「彼岸」が結びつくからか。まぶしい夏の日差しと人々の歓声に取り巻かれつつ友達を待つ時間が長く感じられる。きっと友達は「ごめん、ごめん」と言いながら全然違う方向から歩いてきて、その瞬間に不安な気持ちも消えてしまうだろう。そんなささいな出来事も俳句の言葉に書き留めると、自分にも覚えのある時間が蘇り、ことさらに意味を持って思い出されたりするのだ。『きざし』(2010)所載。(三宅やよい)




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