午後市谷で「清水昶を偲ぶ会」。仏式で言えば今日が四十九日也。(哲




2011ソスN7ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1772011

 峯雲や朱肉くろずむ村役場

                           土生重次

に明暗のはっきりした句です。色、というものの鮮やかさと、白黒のメリハリ。とにかく絵画を見つめるようにして、読者は句の中に入り込んで行けます。夏の盛りなのでしょう。あぜ道を汗だくになりながら自転車を走らせて来たのでしょうか。村役場に入ってくるその人の背中越しに、雲の峰が空高く盛り上がっています。あんまり明るい外から入ってきたために、役場の中はひどく暗く感じられます。住民票の申込書に必要事項を書き、備え付けの朱肉を見れば、真っ赤なはずなのに、赤がそのまま黒ずんで見えます。あまりに明るい場所から来たせいで、目の機能がおかしくなってしまったのか。あるいは赤という色には、もともとその奥に暗闇がしまわれていて、ふとした瞬間に、その姿を見せてしまっただけなのかもしれません。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(松下育男)


July 1672011

 子等の声単音となる日の盛

                           長嶺千晶

れを書いている今、まさに日の盛。午前中はマグリットぽい雲がたくさん浮かんでいたのだけれど、今は雲ひとつなく太陽が照りつけている。おそるおそるベランダに出てみたが人通りも風もわずか、自分のため息の音がするばかりだ。掲出句の、単音、という言葉、聞いたことがあるような無いような。辞書を引くと、「(略)連続的な音声を個々に区切られる諸部分に分解して得られる最小の単位。汗(あせ)は〔a〕〔s〕〔e〕の単音からなる。」(大辞林)とある。なるほど、校庭に公園に元気に響いている子供の声が、炎天下ふっと遠ざかってゆくような、とぎれとぎれになるような気がすることがある、あの感じか。歓声がぱらぱらのアルファベットになって溶けてしまいそうな暑さだ。『夏館』(2003)所収。(今井肖子)


July 1572011

 蝉むせぶやもとより目鼻なき地蔵

                           古沢太穂

語以上の結びつきが習慣的に固定し、ある決まった意味を表すものを成句という。「広辞苑」。この説明の前半部分「習慣的に固定した二語以上の結びつき」もまた詩としては言葉の緊張の不足する要素となりえよう。まして短詩形に於いては致命的になりかねない。川流る、雪降れり、蝶舞へり。季語とて同じ。揚雲雀、緋のカンナなどはどこか最初から絵柄の類型化を志しているかのように思える。蝉につなげて、むせぶは成句を拒否する姿勢がありあり。その二語が成功しているかどうかは二の次。類型を拒否する態度からすべてが始まるのではないか。「もとより目鼻なき地蔵」も、風蝕、雨蝕がすすんで石に還りゆく仏だの消えゆく石の文字だのの定番を裏切っている。もとから目鼻など無いのだ。類型拒否というのは古い型を嫌うということ。それは詩形変革、俳句変革、ひいては自己変革への一歩だ。『捲かるる鴎』(1983)所収。(今井 聖)




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