畑で完熟したトマトが食べたい。流れる汗を拭き熱い汁を滴らせ。(哲




2011ソスN7ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1872011

 何もなく死は夕焼に諸手つく

                           河原枇杷男

際、死には何もない。かつて物理学者の武谷三男が亡くなったとき、哲学者の黒田寛一が「同志・武谷三男は物質に還った」という書き出しの追悼文を書いた。唯物論者が死のことを「物質に還る」と言うのは普通のことだが、追悼文でそう書かれてあるのははじめて見たので、印象に残っている。そのように、死には何もないと私も思うけれども、自分が死ぬときに意識があるとすれば、何もないとすっぱり思えるかどうか、ときどき不安になることもある。句の作者は唯物論者ではなさそうで、だから西方浄土の方向に輝く夕焼けに埋没していくしかないと、死を冷静にとらえてみせているのだろう。ここには厳密に言えば、何もないのではなくて、夕焼けに抒情する心だけはある。何もないと言いながらも、やはりなおどこかに何かを求めている心があるということだ。すぱっと物質に還るとは思い切れない人の心の惑いというもののありかを、句の本意からは外れてしまうが、つよく思わされた句であった。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


July 1772011

 峯雲や朱肉くろずむ村役場

                           土生重次

に明暗のはっきりした句です。色、というものの鮮やかさと、白黒のメリハリ。とにかく絵画を見つめるようにして、読者は句の中に入り込んで行けます。夏の盛りなのでしょう。あぜ道を汗だくになりながら自転車を走らせて来たのでしょうか。村役場に入ってくるその人の背中越しに、雲の峰が空高く盛り上がっています。あんまり明るい外から入ってきたために、役場の中はひどく暗く感じられます。住民票の申込書に必要事項を書き、備え付けの朱肉を見れば、真っ赤なはずなのに、赤がそのまま黒ずんで見えます。あまりに明るい場所から来たせいで、目の機能がおかしくなってしまったのか。あるいは赤という色には、もともとその奥に暗闇がしまわれていて、ふとした瞬間に、その姿を見せてしまっただけなのかもしれません。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(松下育男)


July 1672011

 子等の声単音となる日の盛

                           長嶺千晶

れを書いている今、まさに日の盛。午前中はマグリットぽい雲がたくさん浮かんでいたのだけれど、今は雲ひとつなく太陽が照りつけている。おそるおそるベランダに出てみたが人通りも風もわずか、自分のため息の音がするばかりだ。掲出句の、単音、という言葉、聞いたことがあるような無いような。辞書を引くと、「(略)連続的な音声を個々に区切られる諸部分に分解して得られる最小の単位。汗(あせ)は〔a〕〔s〕〔e〕の単音からなる。」(大辞林)とある。なるほど、校庭に公園に元気に響いている子供の声が、炎天下ふっと遠ざかってゆくような、とぎれとぎれになるような気がすることがある、あの感じか。歓声がぱらぱらのアルファベットになって溶けてしまいそうな暑さだ。『夏館』(2003)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます