今日は「幽霊の日」なんだそうで。見たことないから見てみたい。(哲




2011ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672011

 幽霊坂に立ちて汗拭く巨漢かな

                           福永法弘

漢に「おとこ」とルビあり。日本中の地名が合併統合などによって整理され、分りやすさ重視のそっけない名前に変更されているなか、東京にある多くの坂には昔の面影を偲ばせる名が残されている。掲句は神田淡路町の幽霊坂で「昼でも鬱蒼と木が茂って、いかにも幽霊が出そうだから」と由来される。そこに立つ汗まみれの大男は実像そのものでありながら、坂の名によってどこか現実離れした違和感を刻印する。ほかにも、文京区には「やかんのような化け物が転がり出た」という夜寒坂や、「あまりに狭く鼠でなくては上り降りができない」鼠坂など、車が行き来する道路の隙間に置き去りにされたような坂道が残されている。もっとでこぼこして、野犬がそぞろ歩き、日が落ちればたちまち人の顔も見分けられないほど暗くなっていた頃の東京(江戸)も、おおかたは今と同じ道筋を保ち、町がかたち作られていた。今も昔も、人々は流れる汗を拭いながら、この坂を上り降りしていたのかと思うと、ひとつひとつの坂が愛おしく感じられる。掲句が所収される『千葉・東京俳句散歩』(2011)は、北海道、鹿児島に続いて作者の3冊目となる俳句とエッセイのシリーズである。東京23区、千葉54市町村のそれぞれの横顔が俳句とともにつづられている。(土肥あき子)


July 2572011

 老犬の目覚めて犬に戻りゆく

                           菊池麻美

んだ途端に、人間にも通じるなと思った。仔犬や若い犬は、寝ているときも犬そのものだ。犬としか見えない。だが老いた犬の場合には、まさか他のものと見間違うほどではないにしても、精気が感じられないので、ボロ屑のようにも思えてしまう。それが目覚めてのそりと起き上がり、動きはじめると、だんだん本来の犬としての姿に戻っていくと言うのである。この姿の移り行きは、人間の老いた姿にも共通しているようで、もはや私も他人のことは言えないけれど、多くの老人の昼寝のあとのそれと似ている気がする。実際、たとえば九十歳を過ぎたころからの父の昼寝姿を見ていたころには、あまり生きている人とは映らなかった。ボロ屑のようだとは言わないにしても、精気のない人の寝姿はいたましい。半分くらいは「物」のようにしか見えないのだ。それが起き上がってくると、徐々に人間らしくなってきて安心できた。この句、作者は犬に託して人間のさまを言いたかったのかもしれない。俳誌「鬼」(26号・2011)所載。(清水哲男)


July 2472011

 地下深き駅構内の氷旗

                           福田甲子雄

の句をはじめて読んだ時には、東京駅近くの地下街を思い出しました。でも句は、「駅構内の」と明確に言っています。勝手に読み違えていたのに、なんだか抱いていた印象が失われてしまったようで、さびしくなります。でも、読み違えを正してから読みなおしてみても、やはり印象の深い句に違いはありません。この句の魅力は、物が、当然あるべき場所ではないところにある、その意外性にあります。氷旗といえば、炎天下の道に、入道雲の盛り上がった空に向かって立っているのが普通です。しかしこの句では、空もない、風もない、強い日差しもない場所に、ただ立てられているというのです。視覚的な逆説、とでも言えるでしょうか。もちろん通りすがりに構内の氷旗を見た人の頭の中には、そこから大きな夏の空が広がってきてはいるのです。この句を読んだ人たちの想像の中にも、きちんと夏雲が盛り上がってきているように。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)




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