「あやまちは繰り返しませぬから」。しかし、繰り返されている。(哲




2011ソスN8ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1582011

 生きてゐる負目八月十五日

                           志賀重介

戦の日に七歳の子供だった私にも、多少の負目はある。数々の空襲で死んでいった同世代の子供らのことを思うからである。ましてや作者のように既に大人になっていて生き残った人には、具体的で生々しい死者の記憶があるのだから、負目を覚えるのがむしろ当然だろう。人は必ず死ぬ。それは冷厳な真実ではあるけれど、どのような生の中断についても、生き残った人にはただ理不尽としか映らないものだ。たとえ老衰と言われ大往生と言われるような死ですらも理不尽なのであり、ましてや戦争で若い命が中断されるなどは、その最たるものであるだろう。作者が誰に負目を感じるのかは書かれていないが、それは決して太平洋戦争での日本側の死者三百万人(諸説あり)に対してではなく、具体的に友人知己だった誰かれに対してであるはずだ。三百万人の死者といえば物すごい数だけれど、当時の大人たちにしてみれば、それら三百万人よりも、親しかった一人か二人か、あるいは数人の死に激しい痛みと負目を覚えるのである。つまり、数字のみで戦争の悲惨を計ることはできないということだ。そんな日が、また今年も巡ってきた。死者はいつまでも若く、負目を負った人の若さは既に失われ、理不尽の思いだけが増殖してゆく。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


August 1482011

 戦争が廊下の奥に立ってゐた

                           渡辺白泉

ころで、明日の「終戦記念日」は秋の季語ですが、「戦争」はどうなのでしょうか。「時の流れ」がどの季節にも限定できないように、「戦争」も同様に、季節からまぬがれているのかもしれません。だからこの有名な句を前にしても、特段、季節の風を感じません。あるいは、生きている者の親密な息のぬくもりが感じられません。ただ廊下があって、その奥があって、そこに戦争が立っているのだなと、書かれたままに読むだけです。それでもその無表情な戦争が、頭の中を去ってゆかないのはなぜなのでしょうか。どれほど巧みに感情を込めた表現も、どんなに大きな叫び声も、とても歯が立たないもの。文学という器には到底押し込めることのできないものを表現しようとすれば、こうしてただ、そのものを立たせているしかなかったのでしょう。見事な句です。『現代俳句の世界』(1998・集英社) 所載。(松下育男)


August 1382011

 朝顔の前で小さくあくびする

                           岸田祐子

が家には門がなく、玄関の前に目隠し代わりの木製のフェンスがある。その内側に母が先日、買い求めてきた朝顔の鉢を三つ置いた。蔓を絡ませるにはフェンスの一本一本が太すぎるのでは、と思ったが今や器用に絡んで毎朝咲いている。いわゆる団十郎というのだろうか、茶色がかった渋い赤に白い縁取りの花が気に入っているが、赤紫も藍色も、あらためて見ると風情のある花だ。早朝、朝顔の鉢の前にしゃがみこんでいくつ咲いているか数えたり、しぼんでしまった花殻で色水を作ったりしたことをふと思い出させるこの句。何の説明も理屈もなく、朝の空気に包まれた穏やかな風景がそこにある。「花鳥諷詠」(2011年3月号)所載。(今井肖子)




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