少しずつ秋めいてきますね。そのうちに虫たちも鳴きはじめ…。(哲




2011ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782011

 夕顔やろじそれぞれの物がたり

                           小沢昭一

方に花が開いて朝にはしぼむところから、夕顔の名前がある。蝉も鳴きやみ、いくぶん涼しくなり、町内も静かになった頃あいに、夕顔の白い花が路地に咲きはじめる。さりげない路地それぞれに、さりげなく咲きだす夕顔の花。さりげなく咲く花を見過ごすことなく、そこに「物がたり」を読みとろうとしたところに、小沢昭一風のしみじみとしたドラマが仄見えてくるようだ。ありふれた路地にも、生まれては消えて行ったドラマが、いくつかあったにちがいない。「源氏物語」の夕顔を想起する人もあるだろう。夕顔の実は瓢箪。長瓢箪を昔は家族でよく食べた。鯨汁に入れて夏のスタミナ源と言われ、結構おいしかった。母は干瓢も作った。昭一は著作のなかで「横道、裏道、路地、脇道、迷路に入って、あっちに行き、こっちに行き、うろうろしてきたのが僕の道」と述懐しているけれど、掲句の「ろじ」には、じつは「小沢昭一の物がたり」が諸々こめられているのかもしれない。とにかく多才な人。掲句は句碑にも刻まれている。昭一は周知のように「東京やなぎ句会」のメンバーだが、俳句については「焼き鳥にタレを付けるように、仕事で疲れた心にウルオイを与えてくれる」と語る。他に「もう余録どうでもいいぜ法師蝉」という句もある。蕪村の句に「夕顔や早く蚊帳つる京の家」がある。『思えばいとしや“出たとこ勝負”』(2011)所載。(八木忠栄)


August 1682011

 つれあひに鼻あり左大文字

                           嵯峨根鈴子

夜は京都五山送り火。掲句の大文字は、金閣寺大北山の大文字山である。北山も東山も大文字山と呼ばれているため、御所から見て向かって左にある北山を左大文字、右にある東山を大文字または右大文字と区別しているといわれる。北大文字は、東山の「大」の字を反転させているため左の流れが長いとか、少し小さいので女文字だとか、要は左右対と見なされている。掲句の「つれあひ」なる夫婦の関係に、この対をなす大文字が響き合うことで少々の屈託が生まれた。夫に鼻があるのは当然ながら、炎に照らされた横顔をあらためて見ることの新鮮さが、鼻という輪郭に集約されている。そしてこんなときこそ、この世界でたったひとりの男性と夫婦というかたちを十数年(もっとかもしれないが)続けていることの、不安とも安堵ともつかぬ不思議な感触が芽生えている。ところで、今年は東日本大震災で津波に倒された陸前高田の松原の松を大文字で燃やす計画が、二転三転したあげく、中止になった。放射性物質という得体の知れない恐怖が人の心をかき乱す。『ファウルボール』(2011)所収。(土肥あき子)


August 1582011

 生きてゐる負目八月十五日

                           志賀重介

戦の日に七歳の子供だった私にも、多少の負目はある。数々の空襲で死んでいった同世代の子供らのことを思うからである。ましてや作者のように既に大人になっていて生き残った人には、具体的で生々しい死者の記憶があるのだから、負目を覚えるのがむしろ当然だろう。人は必ず死ぬ。それは冷厳な真実ではあるけれど、どのような生の中断についても、生き残った人にはただ理不尽としか映らないものだ。たとえ老衰と言われ大往生と言われるような死ですらも理不尽なのであり、ましてや戦争で若い命が中断されるなどは、その最たるものであるだろう。作者が誰に負目を感じるのかは書かれていないが、それは決して太平洋戦争での日本側の死者三百万人(諸説あり)に対してではなく、具体的に友人知己だった誰かれに対してであるはずだ。三百万人の死者といえば物すごい数だけれど、当時の大人たちにしてみれば、それら三百万人よりも、親しかった一人か二人か、あるいは数人の死に激しい痛みと負目を覚えるのである。つまり、数字のみで戦争の悲惨を計ることはできないということだ。そんな日が、また今年も巡ってきた。死者はいつまでも若く、負目を負った人の若さは既に失われ、理不尽の思いだけが増殖してゆく。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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