涼しくなってきたおかげで、食欲が少しずつ戻ってきました。(哲




2011ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182011

 黒板負ふごと八月の駅の夜空

                           友岡子郷

板を負ふ、という強いイメージに喩えられているのは、なんともありふれた夜空です。「八月の駅の」なんて、ずいぶん個性のない言葉たちです。でも、そうしたのは作者の意図するところなのです。あってもなくてもいいような言葉が、こんなに短い表現形式の中にも必要になるなんて、驚きです。たとえ17文字とはいえ、全部の言葉が強く自己主張を始めたら、句が暑苦しくなるばかりです。「黒板を負ふ」だけで、もう充分イメージが読者に与えられているわけですから、あとはこのイメージの邪魔をしないようにしなければなりません。暑い日の仕事帰りに、ふと駅の上空を見上げれば、人生の、何か重要なメッセージが空に書かれていたように一瞬思われ、でも目を凝らしてみれば、黒板消しを持った大きな手が上空に振られ、あとはもう何も見えません。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社)所載。(松下育男)


August 2082011

 花火舟音なく岸を離れけり

                           九鬼あきゑ

から花火を見たことはあるが、舟から見た経験は残念ながら無い。大きい納涼船でビール片手にわいわいがやがや、それはそれで楽しかったが。この句は「花火舟」と題された十句作品のうちの一句で他に〈船頭の黙深かりき花火の夜〉〈誰もみな海に手を入れ花火待つ〉など。舟の軋む音、波の音、耳元の風音や人の声。花火を待つ間の静かな時間がこの句から始まっている。空に海に大輪の花火が消える一瞬が、天に届けとばかりに響く音と共に、読み手の中に蘇る。『俳壇』(2011年9月号)所載。(今井肖子)


August 1982011

 見回して雲のありたる秋の晴

                           深見けん二

きどき句会で、研究会と称して「この句が無記名のまま句会に出たら、あなたは採りますか」という試みをやっている。いわゆる名句として喧伝されている句が対象だ。一度先入観を持ってしまうとなかなか作者名と作品を切り離して評価するのは大変だが、それをやってみようというわけである。自分の先入観を一度リセットしてほんとうにあなたにとってその句は魅力的な句なのか、その理由は?ということを問うていくと、鑑賞も評価も評論家やいわゆる大家などの権威に引きずられていることがわかる。この句、出席した句会に出たら僕は間違いなく採る。その理由は第一に、秋晴というのは一点の雲もなく、という本意に抗って雲のある秋晴が写生されている点。見た事実が本意を超えているのだ。第二に「見回して」に「自分」が出ている点。見回す間合いは気持の余裕と肉体の老いの所産だ。それは作者名がわかっているからそういう鑑賞が出来るのだという人がいるかもしれない。それは間違い。蓋を開けてみたらこの句が健康な青年だったという可能性はありえない。「健康な」という但し書きをつけたのは、若年であってもそういう気持の余裕と肉体の衰えを実感せざるを得ない境遇に置かれた場合は別であるという意味。「見回す」は自分と直接的に結びついた言葉である。『蝶に会ふ』(2009)所収。(今井 聖)




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