August 222011
秋が来ますよこんばんはこんばんは
市川 葉
東京辺りでは、にわかに肌寒くなり秋めいてきました。この句とは裏腹に、何の挨拶もなくづかづかと上がりこんできた感じです。でもこれは例外と言うべきで、普段の年なら季節はそれぞれに挨拶をしながらやってきます。昼間の暑さがおさまって夜涼が感じられはじめると、私たちは秋の訪れと知るわけです。作者はそのことを、秋が「こんばんは」と挨拶しているのだとみなして、こちらからも「こんばんは」と返礼したい気分なのでしょうね。それが涼しい季節を待ちかねていた思いに良く通じていて、読者もまたほっとさせられ微笑することになります。なるほど、秋の挨拶は「こんばんは」ですか。だったら春のそれは「こんにちは」で、夏はきっと「おはよう」でしょうね。冬はどうやら無口のようですから、目礼を交わし合う程度ですませてしまうのかしらん。なかなかに愉快な発想の句で、一度読んだら忘れられなくなりそうです。『春の家』(2011)所収。(清水哲男)
June 242014
猫老いていよよ賢し簟
市川 葉
簟(たかむしろ)は竹を細く割って編んだ夏用の敷物。ひんやりとした感触を楽しむ。家から外に出さない猫でも、四季のなかで気に入りの場所は変化する。冬の日だまりや夏の風通しなど、猫はもっとも居心地の良い場所を選択する。掲句の猫も、どれほど年齢を重ねてもその賢さは衰えることなく、研ぎすまされた賢人のごとくしずかに目を閉じているのだろう。猫は犬と違って勝手で気難しいといわれるが、たしかにそんな面もある。飼い主はそこを利用することもある。例えば同集に収められる〈要するに猫が襖を開けたのよ〉などは、猫を飼う者にとっては苦笑とともに共感する作品であろう。失くしものや、食器を割ってしまったことなど、何度となく猫がやったことにしてこっそり罪をかぶせている。おそらく猫はすべてお見通しで、寝たふりをしてくれているのだろう。『ぼく猫』(2014)所収。(土肥あき子)
February 092016
形なきものにぶつかりしやぼん玉
市川 葉
宙に浮いたしゃぼん玉がぱちんと割れる。それは単に埃がぶつかったのか、重力によって上部が薄くなって割れたのか、なにか理由があるはずだが、人はそこに不思議ななにかを求めてしまう。それはガラスなどのワレモノとは異なり、しゃぼん玉が一滴の液体から生まれた実体のおぼつかないものであることが大きい。今年は凍っていくしゃぼん玉の映像が評判となった。美しくはあったが、それに違和感を覚えたのはしゃぼん玉に形を与えてしまうことへの不自然さなのだと気づいた。しゃぼん玉は、無にもっとも近い存在でなければいけないのだと思う。空に放たれ、震えるようにはじけていく。それらはまるで壊れやすさまでもが美の一端となっている。〈雪兎勝手に溶けてしまひたる〉〈生ビールいつも地球のどこか夜〉『市川葉俳句集成』(2016)所収。(土肥あき子)
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