夏休みもあと少し。と思うと、宿題に悩まされたころを思い出す。(哲




2011ソスN8ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2882011

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき

                           松尾芭蕉

士山を見ようと楽しみにしてやってきたのに、いざ到着してみたら、霧が深くてなにも見えません。でもそんな日も考えようによっては面白いではないかと、そのような意味の句です。たしかに、生きていればそういうことって、幾度もあります。ディズニーランドに遊びに行こうという日に、朝から雨が激しく降っていたり、家族旅行の前日に、なぜか姉が熱を出して中止になってしまったり。楽しみにしていた分だけ、落胆の度合いも大きくなるというものです。それにしても、やはり芭蕉は普通ではないなと思うのです。この句を読んでいると、決して負け惜しみで言っているようには感じられません。「霧しぐれ」という言葉が、なによりも美しいし、霧の向こうにあるはずの富士の姿が、思いの中にくっきりと浮かんでくるようです。体験している自分に振り回されないって、なんて素敵な生き方だろうって、つくづく思うのです。『芭蕉物語(上)』(1975・新潮社) 所載。(松下育男)


August 2782011

 古稀の杖つけば新涼集まれる

                           竹下陶子

週末、一雨に新涼を実感した。週が明けてからは再び残暑の毎日だが、法師蝉が夏休みの終わりを告げている。掲出句、作者にとっては、新涼の風を感じるといった、ふとした感覚ではなく、新涼がまさに集まってきたのだ。この句の二年前の作に〈   新涼やギプス軽き日重たき日〉とあり、リハビリを経てこの年は暑い間は大事をとって家居されていたのだろう。杖をついての外出も初めてか、そこにはためらいもあったに違いない。人生七十古来稀、まあ致し方なしというところか、と外に一歩を踏み出した時の作者の静かな中にも深い感動が、新涼の風と共に伝わってくる。『竹下陶子句集』(2011)所収。(今井肖子)


August 2682011

 河港月夜白きのれんにめしの二字

                           大野林火

港と月夜はすこし間を置いて読むのではなく、かこうづきよと一気に読むのだろう。そう考えると河港月夜というのは一個の名詞。作者の造語ということになる。枯木星というのは確か誓子の造語、ガソリンガールというのは風生だったか。目にしてみれば極めて自然に思える言葉も作者のオリジナルな工夫がほどこされているのだ。こんなところにも独自性への真摯な希求がある。こんな小さな詩形のそのまたどこか一部に、かけがえのない「私」が存在するようにという作者の願いが見えてくる。朝日文庫『高濱年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)




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