九月になりました。今日は二百十日、台風12号が接近中です。(哲




2011ソスN9ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0192011

 遺児めきぬ二百十日の靴の紐

                           木村和也

日は九月一日。1923年午前11時58分、関東大震災の起こった日でもある。立春から数えて二百十日目のこのあたりは稲の開花時期でもあるが、台風がよく襲来することもあって昔から厄日とされていたという。この日が防災の日と定められたのは1960年から、今日は小学校、中学校の始業式に合わせて各地で防災訓練が行われることだろう。ところで掲句の靴の紐は、しっかりと靴に装着された靴紐ではなくて、予備として靴箱に置かれたものだろう。もしかすると本体の靴はとっくに処分されているかもしれない。残った靴紐を「遺児めく」と大げさに捉えた見方が意表を突く。大きな余震が続く東京では、次は関東大震災にまさる大地震が来るのではと不安に思っている人も多い。私が勤務している職場でも防災訓練が行われるが、今年は力の入ったものになりそうだ。まずは靴紐をしっかり結ばなければ。『新鬼』(2009)所収。(三宅やよい)


August 3182011

 鯉の口ゆつくり動く残暑かな

                           中上哲夫

かろうが寒かろうが、鯉はゆっくり口をあけてエサを食べ、水を飲む。もちろん残暑の頃になっても、変わることなくパクパクやっている。まだ暑さがつづいてうんざりしているときに、所在なく池の鯉を見ていると、いつしか鯉の口に目を奪われてしまうということだろう。水中の鯉にとって残暑など関係ないだろうけれど、残暑という、季節が移り変わるときであるだけに、作者にはわけもなく鯉のパクパクが気になっている。短いヒゲを揺らしながら、ゆっくり動く鯉の口はいとしい。刀の鞘口のことを「鯉口」とは言い得て妙である。哲夫はむかし、飲んだ後みんなと別れる際に「帰って詩を書こう」と言って笑わせるのがクセだったけれど、居合わせたみんなはひそかに疑っていたはず。帰って、果たして詩を書いたかイビキをかいたか……。今は彼が主宰している句会のあと、「帰って俳句を書こう」などと言っているのかどうか。俳号はズボン堂。彼は近年、余白句会のほうには投句だけしているが、月並み句があったり、思いがけない佳句があったり、振幅が大きいのも彼らしい。他に「猫のひげだらりと垂れて秋暑し」がある。「OLD STATION」14号(2008)所載。(八木忠栄)


August 3082011

 蟻地獄蟻を落して見届けず

                           延寿寺富美

地獄は薄羽蜉蝣(ウスバカゲロウ)の幼虫地面に作る漏斗状の巣穴である。ここに足を取られ落ちてきた蟻やだんご虫などの小さな昆虫を補食する。縁側の下などにきれいに並んで作られていたことはあっても、その仕掛けの一部始終を見届けたことはない。虫たちは流砂のようにすり鉢の奥へ吸い込まれてしまうのか、それとも落ちかかる虫に飛びかかって巣穴へと引き込むのだろうか。作者は蟻地獄の形状を見て、面白半分に手近の蟻を落してみたものの、すり鉢の斜面を四苦八苦する姿だけ見てその場を去ってしまった。蟻地獄という昆虫に餌を与えた、という行為が、一匹の蟻を地獄に落したと言い換えられるのである。そして、なおかつ見届けもせず立ち去るという仕打ちが一層残虐に響いてくる。しかし、取り立てて書いてみれば残酷めいて映るが、このような行為は過去を振り返れば誰でも経験があることではないのか。だからこそ、あえてその通りに詠んだことで、掲句に一種の爽快感すら覚えるのである。すり鉢の奥には一体どのような世界が広がっているか。かくして、地獄という名を負う虫は、薄羽蜉蝣へと羽化する。地獄から一転、はかなさ極まる名に変わったのちの命は、数時間から数日だという。〈ふるさとは南にありし天の川〉〈大旦神は海より来たりけり〉『大旦』(2011)所収。(土肥あき子)




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