原発事故から半年が過ぎた。いや、まだ半年しか経過していない。(哲




2011ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292011

 空っぽの人生しかし名月です

                           榎戸満洲子

宵は仲秋の名月。名月の句は数えきれないほどあるけれど、この句はかなり異色だ。作者はべつに名月を待ちかねていたわけではないし、愛でようとしているわけでもないからである。しかも「空っぽの人生」とは言っているが、作者が自分の人生を深く掘り下げて得た結論でもなさそうで、せいぜいがその場の自虐的な感想程度にしか写らない。そう私が受け取るのは、たぶん「しかし」という接続詞が置かれているせいだろう。この「しかし」はほとんど「ともあれ、とまれ」と同義的に使われていて、前段を否定しているのではなく、それを容認する姿勢を残しつつ、後段に想いを移すという具合に機能している。つまり「人生」と「名月」とは無関係と認識しつつ、それこそ「しかし」、作者は無関係であることに感慨を抱いてしまっている。感慨無き感慨と言ってもよさそうな虚無的な匂いのする心の動きだ。こう読めば、作者の人生ばかりではなく誰の人生もまた、日月のめぐりのなかで生起しながら、やがては日月のめぐりに置き去りにされていくという思いにとらわれる。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 1192011

 団栗の寝ん寝んころりころりかな

                           小林一茶

の句、いったいどういう意味かと考え始めても、なかなかしっくりした答が出てきません。でも、意味は不明でも、読んでいるとなぜか心の奥が明るくなるような気がします。心の奥を明るくしてくれる句なんて、めったにあるものではありません。だから意味なんてどうでもいいのです。言葉のよい調子が、読む人の気分を穏やかにしてくれるし、団栗の姿形も、どこかとぼけていて安心させてくれるものがあります。団栗というと、手のひらに乗せて転がしてみたくなります。そんなことをしても、なにがどうなるわけでもないのに、ただ転がしてみたくなります。この句、子守唄がそのまま入っていますが、安らかに眠ってしまったのは、団栗を握ったままの、日々の労働に疲れきった人の方なのでしょうか。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


September 1092011

 同じ月見てゐる亀と兎かな

                           天野小石

曜日の夜の月は、兎の耳だけをのぞかせていよいよふっくらとして来た十日の月だった。この句の月は仲秋のくっきりとした名月、今年は十二日の月曜日が十五夜で満月でもある。四季折々友人と、いい月が出ています、というメールをやりとりすることがある。それが今別れたばかりの人でも、しばらく会っていない人でも、同じ月を見ているという、その時のほんのりとした距離感は変わらない。ウサギとカメ、といえば寓話の世界では手堅く努力したカメが隙だらけのウサギに勝つわけだが、そんなウサギは月でちゃっかり餅など搗いている。亀と兎の絶妙の組み合わせが、同じ月を見ている時の距離感と感覚を思わせ、誰も彼も月をただただ見てしまうのだ。『花源』(2011)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます