直接対決で勝てないのは阪神の伝統芸。今週は勝ち越してくれ。(哲




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September 1392011

 青空やぽかんぽかんとカリンの実

                           沼田真知栖

載句のカリンは漢字。カリンもパソコン表示できない悩ましいもの。か(榠)はあっても、りん(木偏に虎頭に且)がない。りんごや梨のように枝から垂れるように実るというより、唐突な感じで屹立する。この意表をついた実りかたをなんと表現したらよいか、まさに掲句の「ぽかん」がぴったりなのだ。カリンの果実はとても固くて渋いので、生食することはできない。部屋に置いても長い期間痛むことなく、なんともいえない豊潤な香りを漂わせてくれるので、どこに落ちていても必ず持ち帰ることにしている。姿かたちもごく近しいマルメロはバラ科マルメロ属、カリンはバラ科ボケ属とわずかに異なる。サキの小説に『マルメロの木』というユーモア短編がある。愛すべき老婦人の庭の隅にある一本の「とても見事なマルメロの木」のために起きる小さな町の大騒動を描いたものだ。これもぽかんぽかんと実るマルメロがじつによい味を出している。〈小鳥くるチェロの形のチェロケース〉〈さはやかや橋全長を見渡して〉『光の渦』(2011)所収。(土肥あき子)


September 1292011

 空っぽの人生しかし名月です

                           榎戸満洲子

宵は仲秋の名月。名月の句は数えきれないほどあるけれど、この句はかなり異色だ。作者はべつに名月を待ちかねていたわけではないし、愛でようとしているわけでもないからである。しかも「空っぽの人生」とは言っているが、作者が自分の人生を深く掘り下げて得た結論でもなさそうで、せいぜいがその場の自虐的な感想程度にしか写らない。そう私が受け取るのは、たぶん「しかし」という接続詞が置かれているせいだろう。この「しかし」はほとんど「ともあれ、とまれ」と同義的に使われていて、前段を否定しているのではなく、それを容認する姿勢を残しつつ、後段に想いを移すという具合に機能している。つまり「人生」と「名月」とは無関係と認識しつつ、それこそ「しかし」、作者は無関係であることに感慨を抱いてしまっている。感慨無き感慨と言ってもよさそうな虚無的な匂いのする心の動きだ。こう読めば、作者の人生ばかりではなく誰の人生もまた、日月のめぐりのなかで生起しながら、やがては日月のめぐりに置き去りにされていくという思いにとらわれる。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


September 1192011

 団栗の寝ん寝んころりころりかな

                           小林一茶

の句、いったいどういう意味かと考え始めても、なかなかしっくりした答が出てきません。でも、意味は不明でも、読んでいるとなぜか心の奥が明るくなるような気がします。心の奥を明るくしてくれる句なんて、めったにあるものではありません。だから意味なんてどうでもいいのです。言葉のよい調子が、読む人の気分を穏やかにしてくれるし、団栗の姿形も、どこかとぼけていて安心させてくれるものがあります。団栗というと、手のひらに乗せて転がしてみたくなります。そんなことをしても、なにがどうなるわけでもないのに、ただ転がしてみたくなります。この句、子守唄がそのまま入っていますが、安らかに眠ってしまったのは、団栗を握ったままの、日々の労働に疲れきった人の方なのでしょうか。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)




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