ウィンドウズ8発表。いよいよパソコンはタブレット時代に。(哲




2011ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692011

 紫陽花に秋冷いたる信濃かな

                           杉田久女

本健吉が『現代俳句』の中で絶賛している。曰く、「「秋冷いたる」の音調は爽やかで快く、「信濃かな」の座五も磐石のように動かない。なぜ動かないか、理屈を言っても始まらぬ。とにかく微塵揺るぎもしないこの確かさは三嘆に価する。」健吉の評価に影響されずに読んでもまさに秀吟であることに異存はないが、今ならこんな句は絶対詠えないし、詠えても果たして評価を得るだろうかという思いが湧く。時代の推移による自然環境の変化という話ではない。今でもこの風景は信濃なら一般的。問題はふたつの季語が使われている点である。梅雨期の紫陽花という季語の本意に捉われてしまうと「秋冷」は絶対使えない。仮に句会でこの句を見たら本意を離れた特殊な設定として評価のうちに入れないような気がする。思えば当時はふたつの季語など俳句では一般的であった。一句に季語はひとつとうるさく言い出したのは戦後である。無季派との論議が盛んになったために季語の持つ有効性を強調する必要に迫られたことも影響しているのかもしれないが、早く効率的に俳句の技量を上げるという技術指導が流布したことが大きいのではないか。駄句をなるべく作らないという方法は同時に奇蹟のような秀句の誕生も阻害する。一句に季語はひとつという「約束」は効率以外のなにものでもないことはこういう句を見るとわかる。最近はそれを意識してか、一句に意図的に複数の季語を入れる試みをしている俳人もいる。そういう技術の披瀝を目的のあざとさが見えるとこれも不満。技術本の罪は大きい。『現代俳句』(1964)所収。(今井 聖)


September 1592011

 胃は此処に月は東京タワーの横

                           池田澄子

んだ空に煌々と月が光っている。ライトアップされた東京タワーの横にくっきりと見える満月は美しかろう。ただ、この句は景色がメインではない。胃が存在感を持って意識されるのは、胸やけを感じたり、食べ過ぎで胃が重かったりと、胃が不調の時。もやもやの気分で、ふっと見上げた視線の先に東京タワーと月が並んでいる、あらっ面白いわね。その瞬間の心のはずみが句に感じられる。どんより重い胃とすっきり輝く月の対比を効かせつつ、今、ここに在る自分の立ち位置からさらりと俳句に仕立てるのはこの作者ならではの技。ただその時の気持ちを対象にからませて述懐すれば句になるわけではない。この句では「胃は此処に」に対して「月は東京タワーの横(に)」の対句の構成に「横」の体言止めですぱっと切れを入れて俳句に仕立てている。短い俳句で自分の文体を作り出すのは至難の業ではあるが、どの句にも「イケダスミコ」と署名の入った独特の味わいが感じられる。「今年また生きて残暑を嘆き合う」「よし分かった君はつくつく法師である」『拝復』(2011)所収。(三宅やよい)


September 1492011

 ずっしりと水の重さの梨をむく

                           永 六輔

のくだものは豊富で、どれをとってもおいしい。なかでも梨は秋のくだものの代表だと言っていい。近年は洋梨も多く店頭に並ぶようになったが、日本梨の種類も多い。長十郎、幸水、豊水、二十世紀、新高、南水、愛宕、他……それぞれの味わいに違いがある。品種改良によって、いずれも個性的なおいしさを誇っている。私が子どもの頃によく食べたのは、水をたっぷり含んだ二十世紀だった。梨を手にとると、まず「ずっしり」とした「重さ」を感じることになる。それはまさに「水の重さ」である。梨は西瓜や桃に負けず水のくだものである。梨の新鮮なおいしさを「重さ」でとらえたところが見事。作者が詠んでいる「水の重さ」をもった梨の種類は何だろうか? それはともかく、秋の夜の静けさが、梨の重さをより確かなものにしているように思われる。古書に梨のおいしさは「甘美なること口中に消ゆるがごとし」とか「やはらかなること雪のごとし」などと形容されている。梨の句に「梨をむくおとのさびしく霜降れり」(日野草城)「赤梨の舌にざわつく土着性」(佐藤鬼房)などがある。『楽し句も、苦し句もあり、五・七・五』(2011)所載。(八木忠栄)




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