東京地方も強い風雨にさらされそうだ。大人しくしているしかない。(哲




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September 2192011

 秋の日の瀬多の橋ゆく日傘かな

                           鈴木三重吉

多は「瀬田」とも書く。いずれにせよこの橋は「唐橋」であり、琵琶湖へそそぐ瀬田川に架かっている橋としてよく知られている。「秋の日」といっても、日ざしがまだ夏を残していて強く感じられる。日焼けも気になるから、日傘をさしているのだろう。橋の上ではことさらに日ざしが強そうで気になるのかもしれない。瀬多の唐橋と言えば「近江八景」のうちであり、歌川広重が描いた「瀬多夕照」が思い出される。あの絵に描かれたスケールの大きな橋を、日傘をさして渡る姿は想像しただけでも晴れ晴れとする。掲句は想像ではなくて実景で詠まれたのかもしれない。「日傘」は夏の季語だが、この場合「季重なり」などと野暮は言わず、夏から秋への移り変わりの時季という設定であろう。ところで「瀬多の橋」で想起するのは、大岡信の傑作「地名論」という詩である。それは「瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも/曇り」とリズミカルに結ばれている。言うまでもなく「せたのからはし/せったのからかさ」の響きが意識されている。天候が変われば、「日傘」は「唐傘」にも変わる。木下夕爾の句に「秋の日や凭るべきものにわが孤独」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2092011

 いつもあなたに褒められたかつた初涼

                           阿部知代

山本紫黄の前書がある。「面」を主宰していた山本紫黄は〈新涼の水の重たき紙コップ〉〈日の丸は余白の旗や春の雪〉など、諧謔と抒情の匙加減の絶妙な作家であった。俳縁とは不思議な縁である。ともすれば、その人の年齢も生業も知らないまま、何十年と付き合いが続く。亡くなって初めて、ご家族の顔を知ることも少なくない。俳人の葬儀では、故人が句会で発していた名乗りを真似た声が、どこからともなく上がるという。おそらく家族や親戚も知らない、座を共有した者たちだけが知る故人の声である。それはまるで鳴き交わしあった群れが、去っていく仲間に送る最後の挨拶のようだと、今も深く印象に残っている。俳句は、おおかたが大人になってから出会うこともあり、褒められるという機会がなくなった頃、句会で「この句が好きだ」と臆面もなく他人から言われることの喜びを得られる場である。そして、誰にも振り向かれなくても心から慕う人だけに取られたときの充足はこのうえないものだ。師を失った弟子の慟哭は限りない。生前は言えなかったが、もう会えない聞いてもらえないからこそ吐露できる言葉がある。そして、これほど切ない恋句はないと気づかされる。「かいぶつ句集」(2011年9月・第60号特別記念号)所載。(土肥あき子)


September 1992011

 湯ざましのやうに過ぎけり敬老日

                           野崎宮子

ってつけたような国民の祝日は年に何日かあるが、敬老の日もその一つだ。「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という定義からして空々しい。シルバーシートなどと同じで、そこにそれがあるからそこではじめて老人を意識するなんてことは、心の付け焼き刃に過ぎない。そんな心根で「敬愛」されたって、誰がうれしいと思うだろうか。まさに味気ない「湯ざまし」を飲まされている感じなのだ。湯ざましとは、水の衛生事情が未だしだった時代の殺菌消毒するための手段であった。ただ水を沸かすということは、水の中に含まれている溶存酸素を無くしてしまうために、人体に必要なミネラルも消えてしまう。そればかりか、これを飲むと、逆に水は人体にあるミネラルなどを吸収排出してしまうので、身体には有害だという説もある。作者はそこまで意識してはいないと思うが、今日の私も湯ざましのように索漠たる思いで過ごすのだろうか。『現代俳句歳時記・秋』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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